・・・ 避暑の客が大方帰ったので居残りの者は我儘放題、女中の手もすいたので或夕、大友は宿の娘のお正を占領して飲んでいたが、初めは戯談のほれたはれた問題が、次第に本物になって、大友は遂にその時から三年前の失恋談をはじめた。女中なら「御馳走様」位・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・むかし僧正遍照は天狗を金網の中へ籠めて焼いて灰にしたというが、我らにはなかなかそのような道力はないから、平生いろいろな天狗に脅されて弱っている、俳句天狗や歌天狗、書天狗画天狗浄瑠璃天狗、その上に本物の天狗に出られて叱られでもしたら堪らないか・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・ところがねえ、本物の鶯が僕に調子を合わせていると思ったのは、大間違いサ。それが隣の家に泊まっている大学生サ。」 何かしら常に不満で、常にひとりぼっちで、自分のことしか考えないような顔つきをしている三郎が、そんな鶯のまねなぞを思いついて、・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ 子供を前に置いて、おげんは蛙の鳴声なぞを真似して見せて戯れるうちに、何時の間にか彼女の心は本物の蛙の声の方へ行った。何処かの田圃の方からでも伝わって来るような、さかんな繁殖の声は人に迫るように聞えるばかりでなく、医院の庭に見える深い草・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・之は、書くぞ、書くぞという気合と気魄の小説である。本物の予告篇だと思っていた。そして今に本物があらわれるかと、思っていると、その日その日が晩年であった、ということばがほんとうなのかとうたがわれて来た。健康をそこね、写真はすきとおってやせてい・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・に腕組みなんかしている奴は、やっぱり本当の聖人賢者である、なんて、いやな事が書かれてあったが、浮気の真似をする奴は、やっぱり浮気、奇妙に学者ぶる奴は、やっぱり本当の学者、酒乱の真似をする奴は、まさしく本物の酒乱、芸術家ぶる奴は、本当の芸術家・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・そうするとあなたたちはまた、東京で暮して来た奴等は、むだ使いしてだらしがないと言うし、それかと言って、あなたたちと同様にケチな暮し方をするともう、本物の貧乏人の、みじめな、まるでもう毛虫か乞食みたいなあしらいを頂戴するし、いったい、あなたの・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・いて、しかも大いにのさばっているために、われわれは浄瑠璃の松王丸を見るかわりに俳優何某の松王丸しか見ることができないのであるが、この人形の松王丸となると、それが正真正銘の浄瑠璃の世界から抜けだして来た本物の松王丸そのものになっている。つまり・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・西洋人の書いた、浮世絵に関する若干の書物のさし絵、それも大部分は安っぽい網目版の複製について、多少の観察をしたのと、展覧会や収集家のうちで少数の本物を少し念入りにながめたくらいのものである。それだけの地盤の上に、それだけの材料でなんらかの考・・・ 寺田寅彦 「浮世絵の曲線」
・・・プドーフキンは爆発の光景を現わすのに本物のダイナマイトの爆発を撮ってみたがいっこうにすごみも何もないので、試みにひどく黒煙を出す炬火やら、マグネシウムの閃光やを取り交ぜ、おまけに爆発とはなんの縁もない、有り合わせの河流の映像を插入してみたら・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
出典:青空文庫