・・・今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆を握っている。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然何の理由もないのに?――塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断・・・ 芥川竜之介 「トロッコ」
良平はある雑誌社に校正の朱筆を握っている。しかしそれは本意ではない。彼は少しの暇さえあれば、翻訳のマルクスを耽読している。あるいは太い指の先に一本のバットを楽しみながら、薄暗いロシアを夢みている。百合の話もそう云う時にふと・・・ 芥川竜之介 「百合」
・・・ 雑所も急心に、ものをも言わず有合わせた朱筆を取って、乳を分けて朱い人。と引かれて、カチカチと、何か、歯をくいしめて堪えたが、突込む筆の朱が刎ねて、勢で、ぱっと胸毛に懸ると、火を曳くように毛が動いた。「あ熱々!」 と唐突に躍り上・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・ 時田は朱筆を投げやって仰向けになりながら、『君先だって頼んで置いたのはできたかね。』 江藤は火鉢のそばに座って勝手に茶を飲み、とぼけた顔をして、『なんだッたかしら。』『そら手本サ。』『すっかり忘れていた、失敬失敬、・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・ 意外な事には、此の手紙のところどころに、先輩の朱筆の評が書き込まれていた。括弧の中が、その先輩の評である。 ――○○兄。生涯にいちどのおねがいがございます。八方手をつくしたのですがよい方法がなく、五六回、巻紙を出したり、ひっこめた・・・ 太宰治 「誰」
出典:青空文庫