・・・町にも村にも丸刈りが氾濫して、猫も杓子も丸坊主、丸坊主でなければ人にあらずという風景が描き出された。 このような時に依然として長髪を守って行くことは相当の覚悟を要した。が、私は義憤の髪の毛をかきむしるためにも、長髪でおらねばならないと思・・・ 織田作之助 「髪」
・・・銭で買えた頃、テンセンという言葉が流行して、十銭寿司、十銭ランチ、十銭マーケット、十銭博奕、十銭漫才、活動小屋も割引時間は十銭で、ニュース館も十銭均一、十銭で買え、十銭で食べ十銭で見られるものなら猫も杓子も飛びついたことがある。十銭芸者もま・・・ 織田作之助 「世相」
・・・いいかえれば、私の仲間は猫も杓子も煙草を吸っていたので、私はただ猫でも杓子でもないことを示したかっただけだ。因みに、私が当時ひそかに胸を焦がしていた少女に、彼等煙草生徒も眼をつけていたのだ。 高等学校へはいっても、暫らくは吸わなかったが・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・ 言葉といえば、「猫も杓子も」云々という言葉があります。いつ頃出来た言葉か知りませんが、日本人がこしらえた言葉の中では、なかなか独創性に富んだいい言葉であります。表現――つまり言い現わし方そのものが独創性に富んでいるばかりでなく、「猫も・・・ 織田作之助 「猫と杓子について」
・・・彼等は家庭に帰れば皆善良なる市井人であり、職場では猫の口が喋る如く民主主義を唱え、杓子の耳が聴く如くそれに耳を傾けている筈だが、しかし、人間を愛することを忘れて、いかなる民主主義者があろうか。 復員者に冷たく当りたがる人々の気持はむろん・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・なるほどなるほどと自分は感心して、小短冊位の大きさにそれを断って、そして有合せの味噌をその杓子の背で五厘か七厘ほど、一分とはならぬ厚さに均して塗りつけた。妻と婢とは黙って笑って見ていた。今度からは汝達にしてもらう、おぼえておけ、と云いながら・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・ とにかく、見る眼の相違で同じものの長短遠近がいろいろになったり、二本の棒切れのどちらが定規でどちらが杓子だか分らなくなったりするためにこの世の中に喧嘩が絶えない。しかし、またそのおかげで科学が栄え文学が賑わうばかりでなく、批評家といっ・・・ 寺田寅彦 「観点と距離」
・・・村夫子はなるほど猫も杓子も同じ人間じゃのにことさらに哲人などと異名をつけるのは、あれは鳥じゃと渾名すると同じようなものだのう。人間はやはり当り前の人間で善かりそうなものだのに。と答えてこれもからからと笑う。 余は晩餐前に公園を散歩するた・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・遠の歌も詠み、家屋の内をも歌に詠み、広野の外をも歌に詠み、高山彦九郎をも詠み、御魚屋八兵衛をも詠み、侠家の雪も詠み、妓院の雪も詠み、蟻も詠み、虱も詠み、書中の胡蝶も詠み、窓外の鬼神も詠み、饅頭も詠み、杓子も詠む。見るところ聞くところ触るると・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・しかしこれはそう容易に杓子定木で決してしまわれる問題ではない。ここに病人があって死に瀕して苦しんでいる。それを救う手段は全くない。そばからその苦しむのを見ている人はどう思うであろうか。たとい教えのある人でも、どうせ死ななくてはならぬものなら・・・ 森鴎外 「高瀬舟縁起」
出典:青空文庫