・・・(昂然清水寺に来れる女の懺悔 ――その紺の水干を着た男は、わたしを手ごめにしてしまうと、縛られた夫を眺めながら、嘲るように笑いました。夫はどんなに無念だったでしょう。が、いくら身悶えをしても、体中にかかった縄目は、一層ひしひ・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・ やや光の増し来れる半輪の月を背に、黒き姿して薪をば小脇にかかえ、崖よりぬッくと出でて、薄原に顕れしは、まためぐりあいたるよ、かの山番の爺なりき。「まだ帰らっしゃらねえの。おお、薄ら寒くなりおった。」 と呟くがごとくにいいて、か・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・時にかの蝦蟇法師は、どこを徘徊したりけむ、ふと今ここに来れるが、早くもお通の姿を見て、眼を細め舌なめずりし、恍惚たるもの久しかりし、乞食僧は美人臭しとでも思えるやらむ、むくむく鼻を蠢かし漸次に顔を近附けたる、面が格子を覗くとともに、鼻は遠慮・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・はた又漢土の天台山の来れるかと覚ゆ。此の四山四河の中に手の広さ程の平らかなる処あり。爰に庵室を結んで天雨を脱れ、木の皮をはぎて四壁とし、自死の鹿の皮を衣とし、春は蕨を折りて身を養ひ、秋は果を拾ひて命を支へ候。」 今日交通の便開けた時代で・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・にあしき病なんど行わるる折なれば、くず湯召したまわんとはよろしき御心づきなり、湯の沸えたぎらばまいらせんほどに、しばし待ちたまえといいて、傍の棚をさぐりて小皿をとりいだし懐にして立出でしが、やがて帰り来れるを見れば白き砂糖をその皿に山と盛り・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・されどもいささか思い定むるよし心中にあれば頑として屈せず、他の好意をば無になして辞して帰るやいなや、直ちに三里ほど隔たれる湯の川温泉というに到り、しこうして封書を友人に送り、此地に来れる由を報じおきぬ。罪あらば罪を得ん、人間の加え得る罪は何・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・彼が火の如き花の如き大文字は、淋漓たる熱血を仏国四千万の驀頭に注ぎ来れる也。 当時若しゾーラをして黙して己ましめんか、彼れ仏国の軍人は遂に一語を出すなくしてドレフューの再審は永遠に行われ得ざりしや必せり。彼等の恥なく義なく勇なきは、実に・・・ 幸徳秋水 「ドレフュー大疑獄とエミール・ゾーラ」
・・・初生の人類より滴々血液を伝え来れる地球上譜※の一節である。近時諸種の訳書に比較して見よ。如何に其漢文に老けたる歟が分るではない乎。而して其著「理学鈎玄」は先生が哲学上の用語に就て非常の苦心を費したもので「革命前仏蘭西二世紀事」は其記事文の尤・・・ 幸徳秋水 「文士としての兆民先生」
・・・めぐり来れる春も、このくたびれ切った枯葉たちには、無意味だ。なんのために雪の下で永い間、辛抱していたのだろう。雪が消えたところで、この枯葉たちは、どうにもなりやしないんだ。ナンセンス、というものだ。菊代、声立てて笑う。・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・更に釈迦は集り来れる多数の信者に対して決して肉食を禁じなかった。五種浄肉となづけてあまり残忍なる行為によらずして得たる動物の肉はこれを食することを許したのである。今日のビジテリアンは実に印度の古の聖者たちよりも食物のある点に就て厳格である。・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
出典:青空文庫