・・・勿論東京の山の手の邸宅に住んでいるのですね。背のすらりとした、ものごしの優しい、いつも髪は――一体読者の要求するのはどう云う髪に結った女主人公ですか? 主筆 耳隠しでしょう。 保吉 じゃ耳隠しにしましょう。いつも髪を耳隠しに結った、・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・彼には父の態度と同様、小作人たちのこうした態度も快くなかった。東京を発つ時からなんとなくいらいらしていた心の底が、いよいよはっきり焦らつくのを彼は感じた。そして彼はすべてのことを思うままにぶちまけることのできない自分をその時も歯痒ゆく思った・・・ 有島武郎 「親子」
・・・はたまた今日我邦において、その法律の規定している罪人の数が驚くべき勢いをもって増してきた結果、ついにみすみすその国法の適用を一部において中止せねばならなくなっている事実(微罪不検挙の事実、東京並びに各都市における無数の売淫婦が拘禁は何を語る・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・――茶の唐縮緬の帯、それよりも煙草に相応わないのは、東京のなにがし工業学校の金色の徽章のついた制帽で、巻莨ならまだしも、喫んでいるのが刻煙草である。 場所は、言った通り、城下から海岸の港へ通る二里余りの並木の途中、ちょうど真中処に、昔か・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・予はことばをおしだすようにして、夏になればずいぶん東京あたりから人がきますか、夏は涼しいでしょう。鵜島には紅葉がありますか。鵜島まではなん里くらいありますなど話しかけてみたが、娘はただ、ハイハイというばかり、声を聞きながら形は見えないような・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・「それは済みませんけれど」と言いながら、婆アさんが承知のしるしに僕の猪口に酒を酌いで、下りて行った。 三「お前の生れはどこ?」「東京」「東京はどこ?」「浅草」「浅草はどこ?」「あなたはしつッこ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・何しろ明治二、三年頃、江漢系統の洋画家ですら西洋の新聞画をだも碌々見たものが少なかった時代だから、忽ち東京中の大評判となって、当時の新らし物好きの文明開化人を初め大官貴紳までが見物に来た。人気の盛んなのは今日の帝展どころでなかった。油画の元・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 明治三十年六月二十日東京青山において内村鑑三に及ぶ文章はあるまい。これはまったく外からの雑りのない、もっとも純粋なる英語であるだろう」と申しました。そうしてかくも有名なる本は何であるかというと無学者の書いた本でありま・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・ とうとう、二、三日の後でした。年子は、北へゆく汽車の中に、ただひとり窓に凭って移り変わってゆく、冬枯れのさびしい景色に見とれている、自分を見いだしました。 東京を出るときには、にぎやかで、なんとなく明るく、美しい人たちもまじってい・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・一体まあ東京を経ってから今日までどうしておいでだったの?」「さあ、いろいろ談せば長いけれど……あれからすぐ船へ乗り込んで横浜を出て、翌年の春から夏へ、主に朝鮮の周囲で膃肭獣を逐っていたのさ。ところが、あの年は馬鹿にまた猟がなくて、これじ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫