・・・それは少くとも三町は離れた松林に鳴いている蜩だった。「おい、M!」 僕はいつかMより五六歩あとに歩いていた。「何だ?」「僕等ももう東京へ引き上げようか?」「うん、引き上げるのも悪くはないな。」 それからMは気軽そうに・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・現にその光を浴びた房子は、独り窓の側に佇みながら、眼の下の松林を眺めている。 夫は今夜も帰って来ない。召使いたちはすでに寝静まった。窓の外に見える庭の月夜も、ひっそりと風を落している。その中に鈍い物音が、間遠に低く聞えるのは、今でも海が・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ 僕等はもうその時には別荘らしい篠垣や松林の間を歩いていた。木札はどうもO君の推測に近いものらしかった。僕は又何か日の光の中に感じる筈のない無気味さを感じた。「縁起でもないものを拾ったな。」「何、僕はマスコットにするよ。……しか・・・ 芥川竜之介 「蜃気楼」
・・・がらりと気を替えて、こうべ肉のすき焼、ばた焼、お望み次第に客を呼んで、抱一上人の夕顔を石燈籠の灯でほの見せる数寄屋づくりも、七賢人の本床に立った、松林の大広間も、そのままで、びんちょうの火を堆く、ひれの膏をにる。 この梅水のお誓は、内の・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・冥途の首途を導くようじゃありませんか、五月闇に、その白提灯を、ぼっと松林の中に、という。……成程、もの寂しさは、もの寂しい…… 話はちょっと前後した――うぐい亭では、座つきに月雪花。また少々慾張って、米俵だの、丁字だの、そうした形の落雁・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・青ぎった空に翠の松林、百舌もどこかで鳴いている。声の響くほど山は静かなのだ。天と地との間で広い畑の真ン中に二人が話をしているのである。「ほんとに民子さん、きょうというきょうは極楽の様な日ですねイ」 顔から頸から汗を拭いた跡のつやつや・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ 村に近い、山の松林には、しきりにせみが鳴いていました。信吉は、池のほとりに立って、紫色の水草の花が、ぽっかりと水に浮いて、咲いているのをながめていました。どうしたらあれを採ることができるかな。うまく根といっしょに引き抜かれたなら、家に・・・ 小川未明 「銀河の下の町」
・・・まだそこだけは明るく、あわただしく松林の頭を越えて、海の方へ雲の駆けてゆくのがながめられたのでした。 その夜、小使い室の障子の破れから、冷たい風が吹き込んできました。賢一は常のごとくまくらに頭をつけたけれど、ぐっすりとすぐに眠りに陥るこ・・・ 小川未明 「空晴れて」
・・・林といえばおもに松林のみが日本の文学美術の上に認められていて、歌にも楢林の奥で時雨を聞くというようなことは見あたらない。自分も西国に人となって少年の時学生として初めて東京に上ってから十年になるが、かかる落葉林の美を解するに至ったのは近来のこ・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・熊さんが、どこへ持って行っても相手にしない、山根の、松林のかげで日当りの悪い痩地を、うまげにすゝめてくると、また、口車にのって、そんな土地まで、買ってしまった。その点、ぼれていても、おふくろの方がまだ利巧だった。「そんな、やちもない畠や・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
出典:青空文庫