・・・ 賢造の言葉が終らない内に、洋一はもう茶の間から、台所の板の間へ飛び出していた。台所には襷がけの松が鰹節の鉋を鳴らしている。――その側を乱暴に通りぬけながら、いきなり店へ行こうとすると、出合い頭に向うからも、小走りに美津が走って来た。二・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・この家では台所と云っても、障子一重開けさえすれば、すぐにそこが板の間だった。「何? 婆や。」「まあ御新さん。いらしって御覧なさい。ほんとうに何だと思ったら、――」 お蓮は台所へ出て行って見た。 竈が幅をとった板の間には、障子・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・すると老婆は、松の木片を、床板の間に挿して、それから、今まで眺めていた死骸の首に両手をかけると、丁度、猿の親が猿の子の虱をとるように、その長い髪の毛を一本ずつ抜きはじめた。髪は手に従って抜けるらしい。 その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従・・・ 芥川竜之介 「羅生門」
・・・ 仁右衛門はまた笠井のてかてかした顔に唾をはきかけたい衝動にさいなまれたが、我慢してそれを板の間にはき捨てた。「そうまあ一概にはいうもんでないぞい」「一概にいったが何条悪いだ。去ね。去ねべし」「そういえど広岡さん……」「・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・と言い棄てに、ちょこちょこと板の間を伝って、だだッ広い、寒い台所へ行く、と向うの隅に、霜が見える……祖母さんが頭巾もなしの真白な小さなおばこで、皿小鉢を、がちがちと冷い音で洗ってござる。「買っとくれよ、よう。」 と聞分けもなく織次が・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
一 貸したる二階は二間にして六畳と四畳半、別に五畳余りの物置ありて、月一円の極なり。家主は下の中の間の六畳と、奥の五畳との二間に住居いて、店は八畳ばかり板の間になりおれども、商売家にあらざれば、昼も一枚蔀をおろして、ここは使わず・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・「すぐの、だだッ広い、黒い板の間の向うが便所なんだが、その洗面所に一つ電燈が点いているきりだから、いとどさえ夜ふけの山気に圧されて、薄暗かったと思っておくれ。」「可厭あね。」「止むを得ないよ。……実際なんだから。晩に見た心覚えで・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・と、吉弥が入り口の板の間まで出て来た。大きな丸髷すがたになっている。「………」僕は敷居をまたいでから、無言で立っていると、「まア、おあがんなさいな」と言う。 見れば、もとは店さきでもあったらしい薄ぐらい八畳の間の右の片隅に僕の革・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 今日は不漁で代物が少なかったためか、店はもう小魚一匹残らず奇麗に片づいて、浅葱の鯉口を着た若衆はセッセと盤台を洗っていると、小僧は爼板の上の刺身の屑をペロペロ摘みながら、竹箒の短いので板の間を掃除している。 若衆は盤台を一枚洗い揚・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・催促の身振りが余って腰掛けている板の間をちょっとでもたたくと、お辰はすかさず、「人さまの家の板の間たたいて、あんた、それでよろしおまんのんか」と血相かえるのだった。「そこは家の神様が宿ったはるとこだっせ」 芝居のつもりだがそれでもやはり・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
出典:青空文庫