・・・ 夜になって、高坂の工場へいって、板の間の隅で、“来り聴け! 社会問題大演説会”などと、赤丸つきのポスターを書いていると、硝子戸のむこうの帳場で、五高生の古藤や、浅川やなどを相手に、高坂がもちまえの、呂音のひびく大声でどなっている。そし・・・ 徳永直 「白い道」
・・・御飯焚のお悦、新しく来た仲働、小間使、私の乳母、一同は、殿様が時ならぬ勝手口にお出での事とて戦々恟々として、寒さに顫えながら、台所の板の間に造り付けたように坐って居た。 父は田崎が揃えて出す足駄をはき、車夫喜助の差翳す唐傘を取り、勝手口・・・ 永井荷風 「狐」
・・・唯見ればお妾は新しい手拭をば撫付けたばかりの髪の上にかけ、下女まかせにはして置けない白魚か何かの料理を拵えるため台所の板の間に膝をついて頻に七輪の下をば渋団扇であおいでいる。七 何たる物哀れな美しい姿であろう。夕化粧の襟足際・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・これは大変な荷物だなと思って板の間に並べてある本と、煖炉の上にある本と、机の上にある本と、書棚にある本を見廻した。せんだって「ロッチ」から古本の目録をよこした「ドッズレー」の「コレクション」がある。七十円は高いが欲い。それに製本が皮だからな・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・向うはすぐ台所の板の間で炉が切ってあって青い煙があがりその間にはわずかに低い二枚折の屏風が立っていた。 二人はそこにあったもみくしゃの単衣を汗のついたシャツの上に着て今日の仕事の整理をはじめた。富沢は色鉛筆で地図を彩り直したり、手帳へ書・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・ブドリも心配してついて行きますと、主人はだまって巾を水でしぼって、頭にのせると、そのまま板の間に寝てしまいました。するとまもなく、主人のおかみさんが表からかけ込んで来ました。「オリザへ病気が出たというのはほんとうかい。」「ああ、もう・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・福井県のひどくむし暑い田圃の中の農家の屋根うらの二階で、板の間にしかれた三畳のたたみの上で、毎日少しずつ書いて行った。自分の結婚生活の破綻は益々切迫しているとき、作者が、身辺に取材しないで、現実から翔びはなれて、「古き小画」のような題材をと・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第二巻)」
・・・鉄格子の中の板の間では半裸で、垢まびれの皮膚に拷問の傷をもって、飛行機の爆音の下で虱狩りをしている。―― 帝国主義文明というものの野蛮さ、偽瞞、抑圧がかくもまざまざとした絵で自分を打ったことはない。自分は覚えず心にインド! 印度だ、と叫・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・八畳の間に床の間と廻り縁とがついていて、ほかに四畳半が一間、二畳が一間、それから板の間が少々ある。仲平は八畳の間に机を据えて、周囲に書物を山のように積んで読んでいる。このころは霊岸島の鹿島屋清兵衛が蔵書を借り出して来るのである。一体仲平は博・・・ 森鴎外 「安井夫人」
・・・そこで廊下から西洋風の戸口を通って書斎へはいると、そこは板の間で、もとは西洋風の家具が置いてあったのかもしれぬが、漱石は椅子とか卓子とか書き物机とかのような西洋家具を置かず、中央よりやや西寄りのところに絨毯を敷いて、そこに小さい紫檀の机を据・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫