・・・、その扱帯もその帯留も、お納戸の袷も、萌黄と緋の板締の帯も、荒縄に色を乱して、一つも残らず、七兵衛が台所にずらりと懸って未だ雫も留まらないで、引窓から朝霧の立ち籠む中に、しとしとと落ちて、一面に朽ちた板敷を濡しているのは潮の名残。 可惜・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ われら式、……いや、もうここで結構と、すぐその欄干に附着いた板敷へ席を取ると、更紗の座蒲団を、両人に当てがって、「涼い事はこの辺が一等でして。」 と世話方は階子を下りた。が、ひどく蒸暑い。「御免を被って。」「さあ、脱ぎ・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・沓脱は大戸を明けて、直ぐその通庭なる土間の一端にありて、上り口は拭き込みたる板敷なり。これに続ける六畳は、店と奥との中の間にて、土地の方言茶の室と呼べり。その茶の間の一方に長火鉢を据えて、背に竹細工の茶棚を控え、九谷焼、赤絵の茶碗、吸子など・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・ どこにも座敷がない、あっても泊客のないことを知った長廊下の、底冷のする板敷を、影のさまようように、我ながら朦朧として辿ると……「ああ、この音だった。」 汀の蘆に波の寄ると思ったのが、近々と聞える処に、洗面所のあったのを心着いた・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・これはおのずから雫して、下の板敷の濡れたのに、目の加減で、向うから影が映したものであろう。はじめから、提灯がここにあった次第ではない。境は、斜めに影の宿った水中の月を手に取ろうとしたと同じである。 爪さぐりに、例の上がり場へ……で、念の・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・ と、たそがれの立籠めて一際漆のような板敷を、お米の白い足袋の伝う時、唆かして口説いた。北辰妙見菩薩を拝んで、客殿へ退く間であったが。 水をたっぷりと注して、ちょっと口で吸って、莟の唇をぽッつり黒く、八枚の羽を薄墨で、しかし丹念にあ・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・と、僕は台どころの板敷きからあがって、大きな囲炉裡のそばへ坐った。 主人は尻はしょりで庭を掃除しているのが見えた。おかみさんは下女同様な風をして、広い台どころで働いていた。僕の坐ったうしろの方に、広い間が一つあって、そこに大きな姿見が据・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・広い板敷の台所があって、店のものに食わせる昼飯の支度がしかけてある。番頭や小僧の茶碗、箸なぞも食卓の上に既に置き並べてある。そこは小竹とした暖簾のかかっていた店の奥だ。お三輪は女中を相手に、その台所で働いていた。そこへ地震だ。やがて火だ。当・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・土間へはいると、左手は馬小屋で、右手は居間と台所兼用の板敷の部屋で大きい炉なんかあって、まあ、圭吾の家もだいたいあれ式なのです。 嫁はまだ起きていて、炉傍で縫い物をしていました。「ほう、感心だのう。おれのうちの女房などは、晩げのめし・・・ 太宰治 「嘘」
・・・敵の捨てて遁げた汚い洋館の板敷き、八畳くらいの室に、病兵、負傷兵が十五人、衰頽と不潔と叫喚と重苦しい空気と、それにすさまじい蠅の群集、よく二十日も辛抱していた。麦飯の粥に少しばかりの食塩、よくあれでも飢餓を凌いだ。かれは病院の背後の便所を思・・・ 田山花袋 「一兵卒」
出典:青空文庫