・・・辰さんが板敷から相槌をうつ。いつかの大嵐には黒い波が一町に余る浜を打上がって松原の根を洗うた。その時沖を見ていた人の話に、霧のごとく煙のような燐火の群が波に乗って揺らいでいたそうな。測られぬ風の力で底無き大洋をあおって地軸と戦う浜の嵐には、・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・よく拭き込んだ板敷の床は凸凹だらけの土間に変り、鏡の前に洋酒の並んだラック塗りの飾り棚の代りには縁台のようなものが並んで、そこには正札のついた果物の箱や籠や缶詰の類が雑然と並んでいた。昔は大きな火鉢に炭火を温かに焚いていたのが、今は煤けた筒・・・ 寺田寅彦 「雑記(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・私いくつ時分だったか、一本歯をはいて、ここの板敷を毎日毎日布を晒らしてあるいていたもんや」お絹はそう言って、銚子にごぽごぽ酒を移していた。 廓はどこもしんとしていた。 そこへお芳も連れの楼主のお神といっしょにやってきた。七・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ そんなことをして遊ぶ部屋の端が、一畳板敷になっていた。三尺の窓が低く明いている。壁によせて長火鉢が置いてあるが、小さい子が三人並ぶゆとりはたっぷりある。柿の花が散る頃だ。雨は屡々降ったと思う。余り降られると、子供等の心にも湿っぽさ・・・ 宮本百合子 「雨と子供」
・・・夏じゅう、六番ほどの小鳥を入れた籠は、その曲った方の板敷に置かれて居た。夫の書斎から差すほのかな灯かげの闇で、夜おそく、かさかさと巣の中で身じろぐ音などが聞える。 ところが四五日前、一羽の紅雀が急に死んで仕舞った。朝まで元気で羽並さえ何・・・ 宮本百合子 「餌」
・・・ 階段の中程へ腰をおろし、下の板敷の騒動をひろ子も始めは興にのり、笑い笑い瞰下していた。が、暫くそうやっているうち、ひろ子は、ひとを笑わせ自分も笑っている章子が可哀そうみたいな妙な心持になって来た。紅い帯を胸から巻き、派手な藤色に厚く白・・・ 宮本百合子 「高台寺」
・・・羽織袴、多分まだ両刀を挾した男達が、驚くべく顴骨の高い眦の怒った顔で小さく右往左往している処に一つ衝立があり、木の卓子に向って読書している者、板敷の床を二階に昇ろうとする者の後姿などが雑然と一目で見える絵だ。 古い草紙につきものの乾いた・・・ 宮本百合子 「蠹魚」
・・・ 夢 二の家、なかに又三角に三方障子でかこみ、なか畳そと板敷。板敷歩くのにいい心持、ひろい端にフロ場、厠、粋なのがついて居る。一寸面白いな、と思う。あの明るい障子のなかに居たら面白いな、と子供のときのままごとのような・・・ 宮本百合子 「一九二七年春より」
・・・一面滑らかな板敷で、信徒は皆坐るものと見える。壮大な柱の根もとに穢い木綿坐布団が畳んでつくねられてあるのを見ると、異様に未開な感じがした。未開な、暗い頭脳が一むきに、ぜすきりしとを信奉し、まことに神の羊のように一致団結して苦難に堪えて来た力・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・ 退屈な乳牛共が板敷をコトコト踏みならす音や、ブブブブと鼻を鳴らすの、乾草を刃物で切る様な響をたてて喰べて居るのなどが入りまじって、静かな様な、やかましい様な音をたてて居る。 わきに少しはなれて子牛と母牛を入れてある処がある。乳臭い・・・ 宮本百合子 「農村」
出典:青空文庫