・・・病人も夜長の枕元に薬を煮る煙を嗅ぎながら、多年の本望を遂げるまでは、どうかして生きていたいと念じていた。 秋は益深くなった。喜三郎は蘭袋の家へ薬を取りに行く途中、群を成した水鳥が、屡空を渡るのを見た。するとある日彼は蘭袋の家の玄関で、や・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・新蔵はやっと長い悪夢に似た昏睡状態から覚めて見ると、自分は日本橋の家の二階で、氷嚢を頭に当てながら、静に横になっていました。枕元には薬罎や検温器と一しょに、小さな朝顔の鉢があって、しおらしい瑠璃色の花が咲いていますから、大方まだ朝の内なので・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・どうしてもお前達を子守に任せておけないで、毎晩お前たち三人を自分の枕許や、左右に臥らして、夜通し一人を寝かしつけたり、一人に牛乳を温めてあてがったり、一人に小用をさせたりして、碌々熟睡する暇もなく愛の限りを尽したお前たちの母上が、四十一度と・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・に入る、辰口という小さな温泉に行きて帰るさ、件の茶屋に憩いて、児心に、ふと見たる、帳場にはあらず、奥の別なる小さき部屋に、黒髪の乱れたる、若き、色の白き、痩せたる女、差俯向きて床の上に起直りていたり。枕許に薬などあり、病人なりしなるべし。・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・ 若い人が、ずかずか入って、寝ている人間の、裾だって枕許だって、構やしません。大まかに掻捜して、御飯、お香こう、お茶の土瓶まで……目刺を串ごと。旧の盆過ぎで、苧殻がまだ沢山あるのを、へし折って、まあ、戸を開放しのまま、敷居際、燃しつけて・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・またあの奴民子が居ないから考え込んで居やがると思われるも口惜しく、ようやく心を取直し、母の枕元へいって夜遅くまで学校の話をして聞かせた。 翌くる日は九時頃にようやく起きた。母は未だ寝ている。台所へ出て見ると外の者は皆また山へ往ったとかで・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ 疱瘡の色彩療法は医学上の根拠があるそうであるが、いつ頃からの風俗か知らぬが蒲団から何から何までが赤いずくめで、枕許には赤い木兎、赤い達磨を初め赤い翫具を列べ、疱瘡ッ子の読物として紅摺の絵本までが出板された。軽焼の袋もこれに因んで木兎や・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・そしておみやげに、大きな巴旦杏を枕許に置いてくれました。私は熱のため、頭痛がするのを床の上に起き直って、暗紫色にうまそうな水をたゝえた果物を頬につけたり接吻したりしました。 その時、丁度、珍らしくも、皆既食が、はじまったのでした。私は、・・・ 小川未明 「果物の幻想」
・・・曾ては金持や、資本家というものを仮借なく敵視した時代もあったが、これ等の欲深者も死ぬ時には枕許に山程の財宝を積みながら、身には僅かに一枚の経帷衣をつけて行くに過ぎざるのを考えると、おかしくなるばかりでなく、こうした貯蓄者があればこそ地上の富・・・ 小川未明 「春風遍し」
・・・と自分の寝床に潜ぐりこんだ。そして寝床の中で腹巻の銭をチャラチャラいわせていたが、「阿母、おい、ここへ置くよ。今夜のを。」と枕元へ銅貨の音をさせた。 私は悸とした。 すると、案のごとく、上さんはそれを受取ると、今度は薄暗いランプ・・・ 小栗風葉 「世間師」
出典:青空文庫