・・・そういう時には尻尾を脚の間へ曲げこんで首を垂れて極めて小刻みに帰って行く。赤は又庭へ雀がおりても駈けて行く。庭の桐の木から落ちたササキリが其長い髭を徐ろに動かしてるのを見て、赤は独で勇み出して庭のうちに輪を描いて駈け歩いた。そうしては足で一・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ すべてを忘れ尽したる後女はわがうつくしき眼と、うつくしき髪の主である事を忘れた。一人の男は髯のある事を忘れた。他の一人は髯のない事を忘れた。彼らはますます太平である。 昔し阿修羅が帝釈天と戦って敗れたときは、八万四千の眷属を領して・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・それは極めて幼稚な神秘的な考である。芸術的直観といえども、そうしたものではない。それは無限の過程であるのである。物理学というものも、歴史的身体的なる我々の感官の無限なる行為的直観の過程に基くのである。直観的過程において一々の点が始であり終で・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・日本の詩人は、芭蕉、西行等の古から、大正昭和の現代に至るまで、皆一つの極つた範疇を持つて居る。その範疇といふのは、単に感覚や気分だけで、自然人生を趣味的に観照するのである。日本の詩人等は、昔から全く哲学する精神を欠乏して居る。そして此処に詩・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・ 秋山も小林も極く穏かな人間であった。秋山は子供を六人拵えて、小林は三人拵えて、秋山は稍ずるく、小林は掘り出した切り株の如く「飛んでもねえ世の中」を渡っていた。「何て、やけに吹きやがるんだ! 畜生」 小林はそう云って、三尺鑿の先・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・裏に表に手を尽して吟味に吟味を重ね、双方共に是れならばと決断していよ/\結婚したる上は、家の貧乏などを離縁の口実にす可らざるは、独り女の道のみならず、亦男子の道として守る可き所のものなり。近年の男子中には往々此道を知らず、幼年の時より他人の・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
人物の善悪を定めんには我に極美なかるべからず。小説の是非を評せんには我に定義なかる可らず。されば今書生気質の批評をせんにも予め主人の小説本義を御風聴して置かねばならず。本義などという者は到底面白きものならねば読むお方にも・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・余の家の南側は小路にはなって居るが、もと加賀の別邸内であるのでこの小路も行きどまりであるところから、豆腐売りでさえこの裏路へ来る事は極て少ないのである。それでたまたま珍らしい飲食商人が這入って来ると、余は奨励のためにそれを買うてやりたくなる・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
・・・「又三郎さん北極だの南極だのおべだな。」 一郎は又三郎に話させることになれてしまって斯う云って話を釣り出そうとしました。 すると又三郎は少し馬鹿にしたように笑って答えました。「ふん、北極かい。北極は寒いよ。」 ところが耕・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
この短篇集は私にとってもすこし風変りな集となった。一番はじめの「朝の風」は極く最近のものだけれど、次の「牡丹」以下の作品はずっと昭和の初めごろまでさかのぼっていて「小祝の一家」に到る間に多くの年月がこもっている。 これ・・・ 宮本百合子 「あとがき(『朝の風』)」
出典:青空文庫