・・・ 彼は振りかえって枯木の幹をぴたぴたと叩き、ずっと梢を見あげたのである。「そうでないよ。枝の生えかたがちがうし、それに、木肌の日の反射のしかただって鈍いじゃないか。もっとも、芽が出てみないと判らぬけれど。」 私は立ったまま、枯木・・・ 太宰治 「猿ヶ島」
・・・私はからだが悪くて丙の部類なのだが、班の人数が少なかったので、御近所の班長さんにすすめられて参加する事になったのだ。枯木も山の賑わいというところだったのだが、それが激賞されるほどの善行であったとは全く思いもかけない事であった。私は、みんなを・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・大礼服着たる衣紋竹、すでに枯木、刺さば、あ、と一声の叫びも無く、そのままに、かさと倒れ、失せむ。空なる花。ゆるせよ、私はすすまなければいけないのだ。母の胸ひからびて、われを抱き入れることなし。上へ、上へ、と逃れゆくこそ、われのさだめ。断絶、・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・ 一年の修行ののち、枯木の三角の印は椀くらいの深さに丸くくぼんだ。次郎兵衛は考えた。いまは百発百中である。けれどもまだまだ安心はできない。相手はこの根株のようにいつもだまって立ちつくしてはいない。動いているのだ。次郎兵衛は三島のまちのほ・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・ 大正年間の大噴火に押し出した泥流を被らなかったと思われる部分の山腹は一面にレモン黄色と温かい黒土色との複雑なニュアンスをもって彩られた草原に白く曝された枯木の幹が疎らに点在している。そうして所々に露出した山骨は青みがかった真珠のような・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・白い煙の上にけし飛ぶ枯木の黒い影が見える。 戦場が消えると、町はずれの森蔭の草地が現われる。二人の男が遠くはなれて向い合って立っている。二人が同時に右手を挙げたと思うと手のさきからぱっと白い煙が出る。するとその一人は柱を倒すようにうつむ・・・ 寺田寅彦 「ある幻想曲の序」
・・・その人の多様な過去の生活を現わすかのような継ぎはぎの襤褸は枯木のような臂を包みかねている。わが家の裏まで来て立止った。そして杖にすがったまま辛うじてかがんだ猫背を延ばして前面に何物をか求むるように顔を上げた。窪んだ眼にまさに没せんとする日が・・・ 寺田寅彦 「凩」
・・・今までは本堂に遮られて見えなかった裏手の墳墓が黒焦げになったまま立っている杉の枯木の間から一目に見通される。家康公の母君の墓もあれば、何とやらいう名高い上人の墓もある……と小さい時私は年寄から幾度となく語り聞かされた……それらの名高い尊い墳・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・近寄って見ると、松の枯木は広い池の中に立っていて、その木陰には半ば朽廃した神社と、灌木に蔽われた築山がある。庭は随分ひろいようで、まだ枯れずにいる松の木立が枯蘆の茂った彼方の空に聳えている。垣根はないが低い土手と溝とがあるので、道の此方から・・・ 永井荷風 「元八まん」
・・・ この時まで枯木のごとく立ッていた吉里は、小万に顔を見合わせて涙をはらはらと零し、小万が呼びかけた声も耳に入らぬのか、小走りの草履の音をばたばたとさせて、裏梯子から二階の自分の室へ駈け込み、まだ温気のある布団の上に泣き倒れた。 ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫