・・・ と、手よりも濡れた瞳を閉じて、頸白く、御堂をば伏拝み、「一口めしあがれ、……気を静めて――私も。」 と柄杓を重げに口にした。「動悸を御覧なさいよ、私のさ。」 その胸の轟きは、今より先に知ったのである。「秦さん、私は・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ 三 その御手洗の高い縁に乗っている柄杓を、取りたい、とまた稚児がそう言った。 紫玉は思わず微笑んで、「あら、こうすれば仔細ないよ。」 と、半身を斜めにして、溢れかかる水の一筋を、玉の雫に、颯と散らし・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・申されたを、通りがかった当藩三百石、究竟の勇士が、そのまま中仙道北陸道を負い通いて帰国した、と言伝えて、その負さりたもうた腹部の中窪みな、御丈、丈余の地蔵尊を、古邸の門内に安置して、花筒に花、手水鉢に柄杓を備えたのを、お町が手つぎに案内する・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・惣領を相手に、腰巻一つになって小牛を洗ってる、刈立ての青草を籠に一ぱい小牛に当てがって、母子がさも楽しそうに黒白斑の方のやつを洗ってやってる、小牛は背中を洗って貰って平気に草を食ってる、惣領が長い柄の柄杓で水を牛の背にかける、母親が縄たわし・・・ 伊藤左千夫 「姪子」
・・・潮遠く引きさりしあとに残るは朽ちたる板、縁欠けたる椀、竹の片、木の片、柄の折れし柄杓などのいろいろ、皆な一昨日の夜の荒の名残なるべし。童らはいちいちこれらを拾いあつめぬ。集めてこれを水ぎわを去るほどよき処、乾ける砂を撰びて積みたり。つみし物・・・ 国木田独歩 「たき火」
・・・住持といっても木綿の法衣に襷を掛けて芋畑麦畑で肥柄杓を振廻すような気の置けない奴、それとその弟子の二歳坊主がおるきりだから、日に二十銭か三十銭も出したら寺へ泊めてもくれるだろう。古びて歪んではいるが、座敷なんぞはさすがに悪くないから、そこへ・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・乾くと漕ぎづらいから、自分の前の処にある柄杓を取って潮を汲んで、身を妙にねじって、ばっさりと艪の臍の処に掛けました。こいつが江戸前の船頭は必ずそういうようにするので、田舎船頭のせぬことです。身をねじって高い処から其処を狙ってシャッと水を掛け・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・ 茶の湯も何も要らぬ事にて、のどの渇き申候節は、すなわち台所に走り、水甕の水を柄杓もてごくごくと牛飲仕るが一ばんにて、これ利休の茶道の奥義と得心に及び申候。 というお手紙を、私はそれから数日後、黄村先生からいただいた。・・・ 太宰治 「不審庵」
・・・小さい竹柄杓が浮いたままにしずくに打たれている。自分は柄杓にかじりつくようにして、うまい冷たいはらわたにしむ水を味おうた。少し離れた崖の下に一株の大きな野ばらがあって純白な花が咲き乱れている。自分は近寄って強いかおりをかいで・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・ 夏から秋へかけての日盛に、千葉県道に面した商い舗では砂ほこりを防ぐために、長い柄杓で溝の水を汲んで撒いていることがあるが、これもまたわたくしには、溝の多かった下谷浅草の町や横町を、風の吹く日、人力車に乗って通り過ぎたころのむかしを思い・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
出典:青空文庫