・・・艫へ這上りそうな形よ、それで片っぺら燃えのびて、おらが持っている艪をつかまえそうにした時、おらが手は爪の色まで黄色くなって、目の玉もやっぱりその色に染まるだがね。だぶりだぶり舷さ打つ波も船も、黄色だよ。それでな、姉さん、金色になって光るなら・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 姫のその姿が、正面の格子に、銀色の染まるばかり、艶々と映った時、山鴉の嘴太が――二羽、小刻みに縁を走って、片足ずつ駒下駄を、嘴でコトンと壇の上に揃えたが、鴉がなった沓かも知れない、同時に真黒な羽が消えたのであるから。 足が浮いて、・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・……処々巌蒼く、ぽっと薄紅く草が染まる。嬉しや日が当ると思えば、角ぐむ蘆に交り、生茂る根笹を分けて、さびしく石楠花が咲くのであった。 奥の道は、いよいよ深きにつけて、空は弥が上に曇った。けれども、志す平泉に着いた時は、幸いに雨はなかった・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・見ると、顔の色が真蒼になるとともに、垂々と血に染まるのが、溢れて、わななく指を洩れる。 俊吉は突伏した。 血はまだ溢れる、音なき雪のように、ぼたぼたと鳴って留まぬ。 カーンと仏壇のりんが響いた。「旦那様、旦那様。」「あ。・・・ 泉鏡花 「第二菎蒻本」
・・・そして、この人の心臓に染まるような花の香気は、またなんともいえぬ悲しみを含んでいるのです。 小川未明 「三月の空の下」
・・・来た荷物を売りはらった金で、人力車を一台購い、長袖の法被に長股引、黒い饅頭笠といういでたちで、南地溝の側の俥夫の溜り場へのこのこ現われると、そこは朦朧俥夫の巣で、たちまち丹造の眼はひかり、彼等の気風に染まるのに何の造作も要らなかった。 ・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・見ている自分もほーっと染まる。「そんな病弱な、サナトリウム臭い風景なんて、俺は大嫌いなんだ」「雲とともに変わって行く海の色を褒めた人もある。海の上を行き来する雲を一日眺めているのもいいじゃないか。また僕は君が一度こんなことを言っ・・・ 梶井基次郎 「海 断片」
・・・ソビエトの幼児が函館の町っ児の感化に染まることを恐れるのであろう。少し下りた処の洗濯屋の看板を見ると何某プラチェシナヤと露文字で書いてある。領事館御用の洗濯屋さんだからかと思ったが、電車通りを歩いていると、露文字の看板は外にも二つ見付かった・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・ 空に聳えている山々の巓は、この時あざやかな紅に染まる。そしてあちこちにある樅の木立は次第に濃くなる鼠色に漬されて行く。 七人の知らぬ子供達は皆じいっとして、木精の尻声が微かになって消えてしまうまで聞いている。どの子の顔にも喜びの色・・・ 森鴎外 「木精」
・・・「木の葉があんなに染まるのでございますから、朝晩お寒くなりましたのも無理はございませんね」 姉娘が突然弟を顧みて言った。「早くお父うさまのいらっしゃるところへ往きたいわね」「姉えさん。まだなかなか往かれはしないよ」弟は賢しげに答えた・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
出典:青空文庫