・・・雑樹の影が沁むのかも知れない。 蝙蝠が居そうな鼻の穴に、煙は残って、火皿に白くなった吸殻を、ふっふっと、爺は掌の皺に吹落し、眉をしかめて、念のために、火の気のないのを目でためて、吹落すと、葉末にかかって、ぽすぽすと消える処を、もう一つ破・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ 間広き旅店の客少なく、夜半の鐘声森として、凄風一陣身に染む時、長き廊下の最端に、跫然たる足音あり寂寞を破り近着き来りて、黒きもの颯とうつる障子の外なる幻影の、諸君の寝息を覗うあらむ。その時声を立てられな。もし咳をだにしたまわば、怪しき・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・ 日中は梅の香も女の袖も、ほんのりと暖かく、襟巻ではちと逆上せるくらいだけれど、晩になると、柳の風に、黒髪がひやひやと身に染む頃。もうちと経つと、花曇りという空合ながら、まだどうやら冬の余波がありそうで、ただこう薄暗い中はさもないが、処・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・む 貞石三生宿縁を証す 未だ必ずしも世間偉士無からざるも 君が忠孝の双全を得るに輸す 浜路一陣のこうふう送春を断す 名花空しく路傍の塵に委す 雲鬟影を吹いて緑地に粘す 血雨声無く紅巾に沁む 命薄く刀下の鬼となるを甘んずるも ・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・ 豆洋燈つけて戸外に出れば寒さ骨に沁むばかり、冬の夜寒むに櫓こぐをつらしとも思わぬ身ながら粟だつを覚えき。山黒く海暗し。火影及ぶかぎりは雪片きらめきて降つるが見ゆ。地は堅く氷れり。この時若き男二人もの語りつつ城下の方より来しが、燈持ちて・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・ 日が落ちる、野は風が強く吹く、林は鳴る、武蔵野は暮れんとする、寒さが身に沁む、その時は路をいそぎたまえ、顧みて思わず新月が枯林の梢の横に寒い光を放っているのを見る。風が今にも梢から月を吹き落としそうである。突然また野に出る。君はその時・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・やわらかくまぶたに滲む乳汁に塵でチクチクしていた目の中がうるおうて塵が除れた。 亡くなった母を思い出すたびに、私は幼いときのその乳汁を目に落してくれた母が一番目の前に浮かぶのだ。なつかしい、温い、幾分動物的な感触のまじっている母の愛!・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・ ガンジーの母は、ガンジーがロンドンに勉強しに行こうとするとき、インドの母らしい敬虔な心から、わが子がヨーロッパの悪風に染むことを恐れてなかなか許そうとしなかった。決してそんなことのない誓いをさせてやっと許した。 源信僧都の母は、僧・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・訳もなしに身に沁む。此処に来た当座は耳に馴れぬ風の夜の波音に目が醒めて、遠く切れ/\に消え入る唄の声を侘しがったが馴れれば苦にもならぬ。宿の者も心安くなってみれば商売気離れた親切もあって嬉しい。雨が降って浜へも出られぬ夜は、帳場の茶話に呼ば・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・頃のわが家を想い出してみると、暗いランプに照らされた煤けた台所で寒竹の皮を剥いている寒そうな母の姿や、茶の間で糸車を廻わしている白髪の祖母の袖無羽織の姿が浮び、そうして井戸端から高らかに響いて来る身に沁むような蟋蟀の声を聞く想いがするのであ・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
出典:青空文庫