・・・井伊と吉田、五十年前には互に倶不戴天の仇敵で、安政の大獄に井伊が吉田の首を斬れば、桜田の雪を紅に染めて、井伊が浪士に殺される。斬りつ斬られつした両人も、死は一切の恩怨を消してしまって谷一重のさし向い、安らかに眠っている。今日の我らが人情の眼・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・足首を白いほこりに染めながら、小家ばかりの裏町の路地を、まちがえずに入ってくる。なにかどなりながら竹箒をかついで子供をおっかけてきた腰巻一つの内儀さんや、ふんどしひとつのすねをたたきながら、ひさし下のしおたれた朝顔のつるをなおしているおやじ・・・ 徳永直 「白い道」
・・・山牛蒡の葉と茎とその実との霜に染められた臙脂の色のうつくしさは、去年の秋わたくしの初めて見たものであった。野生の萩や撫子の花も、心して歩けば松の茂った木蔭の笹藪の中にも折々見ることができる。茅葺の屋根はまだ随処に残っていて、住む人は井戸の水・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・その時彼が持ちたるは白地に赤く十字架を染めたる盾なり。ただの一度の仕合に傷きて、その創口はまだ癒えざれば、赤き血架は空しく壁に古りたり。これを翳して思う如く人々を驚かし給え」 ランスロットは腕を扼して「それこそは」という。老人はなお言葉・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・そして主人は、一ふくろのお金と新しい紺で染めた麻の服と赤皮の靴とをブドリにくれました。 ブドリはいままでの仕事のひどかったことも忘れてしまって、もう何もいらないから、ここで働いていたいとも思いましたが、考えてみると、いてもやっぱり仕事も・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・ 例えば今日ではもう昔の物語になってしまった琉球のあの美しい絣織物にしても染めの技術にしても今はみんな壊れてしまってなくなったが、あれも土地の女の人の労作であった。ジャワ更紗など高い価値をもっていて大変美しい芸術的な香りをもっているもの・・・ 宮本百合子 「衣服と婦人の生活」
・・・真っ蒼に澄み切った、まだ秋らしい空の色がヴェランダの硝子戸を青玉のように染めたのが、窓越しに少し翳んで見えている。山の手の日曜日の寂しさが、だいぶ広いこの邸の庭に、田舎の別荘めいた感じを与える。突然自動車が一台煉瓦塀の外をけたたましく過ぎて・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・髪の毛の間にははでな色に染めた鳥の羽を挿していた。その羽に紐が附けてあって、紐の端がポッケットに入れてある。その紐を引くと、頭の上で蝋燭を立てたように羽が立つ。それを見ては誰だって笑わずにはいられない。この男にこの場所で小さい女中は心安くな・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・ これと対い合ッているのは四十前後の老女で、これも着物は葛だが柿染めの古ぼけたので、どうしたのか砥粉に塗れている。顔形、それは老若の違いこそはあるが、ほとほと前の婦人と瓜二つで……ちと軽卒な判断だが、だからこの二人は多分母子だろう。・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・出て行くとき彼女は長い廊下を見送る看護婦たちにとりまかれながら、いささかの羞ずかしさのために顔を染めてはいたものの、傲然とした足つきで出ていった、それは丁度、長い酷使と粗食との生活に対して反抗した模範を示すかのように。その出て行くときの彼女・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫