・・・生活のまったく絶息してしまったようなこの古い鄙びた小さな都会では、干からびたような感じのする料理を食べたり、あまりにも自分の心胸と隔絶した、朗らかに柔らかい懈い薄っぺらな自然にひどく失望してしまったし、すべてが見せもの式になってしまっている・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・ 黒くて柔らかい土塊を破って青い小麦の芽は三寸あまりも伸びていた。一団、一団となって青い房のように、麦の芽は、野づらをわたる寒風のなかに、溌溂と春さきの気品を見せていた。「こらァ、豪気だぞい」 善ニョムさんは、充分に肥料のきいた・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・そうして柔らかい土を、上からそっと掛けた。掛けるたびに真珠貝の裏に月の光が差した。 それから星の破片の落ちたのを拾って来て、かろく土の上へ乗せた。星の破片は丸かった。長い間大空を落ちている間に、角が取れて滑かになったんだろうと思った。抱・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・それらの話や会話は、耳の聴覚で聞くよりは、何かの或る柔らかい触覚で、手触りに意味を探るというような趣きだった。とりわけ女の人の声には、どこか皮膚の表面を撫でるような、甘美でうっとりとした魅力があった。すべての物象と人物とが、影のように往来し・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ 深谷は何をするのだろう? そんなにセコチャンと親密ではなかった。同性愛などとは思いもよらない仲であった。ほとんど一度も口さえ利いたことはなかった! 軟らかい墓土はそばに高く撥ねられた。そして棺の上はだんだん低くなった。深谷の腰から・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・ と、鋸の刃が何か柔らかいものにぶっつかる音がした。腐屍の臭いが、安岡の鼻を鋭く衝いた。 生け垣の外から、腹這いになって目を凝らしている安岡の前に、おもむろに深谷が背を伸ばした。 彼は屍骸の腕を持っていた。そして周りを見回した。ちょ・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・ しかもこれらすべては、美しく熟した果物の表面を飾っている柔らかい色づいた表皮のようなものである。その下に美味な果肉がある。すなわち民族全体は、最も小さい子供から最も年長の老人に至るまで、その身ぶり、動作、礼儀などに、自明のこととして明・・・ 和辻哲郎 「アフリカの文化」
・・・ 真道黎明氏の『春日山』は川端氏の画と同じく写実の試みであって、さらに多くの感情を現わし得たものである。柔らかい若葉の豊かな湧き上がるような感触は、――ただこの感触の一点だけは、――油絵の具をもって現わし難いところを現わし得ているように・・・ 和辻哲郎 「院展日本画所感」
・・・昔の荒々しい調子、鋭き叫び声は消え失せて柔らかい静けさに変わっている。白い額に起こる影、口のあたりの痙攣、美しい優しい柔らかい声の中の、静かに流れて行くような屈曲。まことに静寂な清浄な、月の光のような芸である。 偉大なるエレオノラ・・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
・・・直接音に関係のあるのは葉だろうと思うが、松の葉は緑の針のような形で、実際落葉樹の軟らかい葉には針のように突き刺すことができる。葉脈が縦に並んでいて、葉の裏には松の脂が出るらしい白い小さい点が細い白線のように見えている。実際強靭で、また虫に食・・・ 和辻哲郎 「松風の音」
出典:青空文庫