・・・けれどもすっかり陥没し切るまでには、案外時がかゝるものかも知れないし、またその間にどんな思いがけない救いの手が出て来るかも知れないのだし、また福運という程ではなくも、どうかして自分等家族五人が饑えずに活きて行けるような新しい道が見出せないと・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・事故などは少いでしょうと訊くと、いやこれで案外多いのです。往来を走っているのは割合い少いものですが、など車掌は言っていた。汽車のように枕木の上にレールが並べてあって、踏切などをつけた、電車だけの道なのであった。 窓からは線路に沿った家々・・・ 梶井基次郎 「路上」
・・・そして武の案内で奥の一間に入りますと、ここは案外小奇麗になっていまして、行燈の火が小さくして部屋の隅に置いてありました。しかしまず私の目につきましたのはそこに一人の娘が坐っていることでございます。私が入ると娘は急に起とうとしてまた居住いを直・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・と手を掛けて揺振ってみて「案外丈夫そうだ。まアこれでも可い、無いよりか増だろう。その内大工を頼んで本当に作らすことに仕よう」と言って「竹で作えても木戸は木戸だ、ハ、ハハハハ」と笑いながら屋内へ入った。 お源はこれを自分の宅で聞いてい・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・と云うと、案外にも言葉やさしく、「許してくれる。」と訳も無く云放った。二人はホッとしたが、途端にまた「おのれの疎忽は、けも無い事じゃ。ただし此家の主人はナ」と云いかけて、一寸口をとどめた。主人と云ったのは此処には居らぬ真・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・が、蒸しッ返えしの長い長い二十九日を、案外のん気に過ごさしてくれたようである。勿論その間に、俺は二三度調べに出て、竹刀で殴ぐられたり、靴のまゝで蹴られたり、締めこみをされたりして、三日も横になったきりでいたこともある。別の監房にいる俺たちの・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・子安が着いて見ると案外心易い、少壮な学者だ。 こうなると教員室も大分賑かに成った。桜井先生はまだ壮年の輝きを失わない眼付で、大きな火鉢を前に控えて、盛んに話す。正木大尉は正木大尉で強い香のする刻煙草を巻きながら、よく「軍隊に居た時分」を・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ と案外、しずかな、教えさとすような口調で言いました。「いいえ、それがね、本当にたしかなのよ。だから、私を信用して、おもて沙汰にするのは、きょう一日待って下さいな。それまで私は、このお店でお手伝いしていますから」「お金が、かえっ・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・うちの女房なんか、あんな薄汚い婆でも、あれで案外、ほかに男をこしらえているかも知れない。いや、それは本当に、わからないものですよ。」と笑わずに言って、次のように田舎の秘話を語り聞かせてくれた。以下「私」というのは、その当年三十七歳の名誉職御・・・ 太宰治 「嘘」
・・・池の測深もその時やった結果が紀要に出ている。案外深い池である。 自分の知っているだけの文献を数えてみても、これだけあるのだから、私などの知らない他の方面の学科に関するものをあげたら、ずいぶんな分量になるかもしれない。これから後にもまだど・・・ 寺田寅彦 「池」
出典:青空文庫