・・・「ところがそれから一月ばかり経って(元より私はその間も、度々彼等夫婦とは往来ある日私が友人のあるドクトルに誘われて、丁度於伝仮名書をやっていた新富座を見物に行きますと、丁度向うの桟敷の中ほどに、三浦の細君が来ているのを見つけました。その・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ 二二 川開き やはりこの二州楼の桟敷に川開きを見ていた時である。大川はもちろん鬼灯提灯を吊った無数の船に埋まっていた。するとその大川の上にどっと何かの雪崩れる音がした。僕のまわりにいた客の中には亀清の桟敷が落ちたと・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・そのほか、日傘をかざすもの、平張を空に張り渡すもの、あるいはまた仰々しく桟敷を路に連ねるもの――まるで目の下の池のまわりは時ならない加茂の祭でも渡りそうな景色でございます。これを見た恵印法師はまさかあの建札を立てたばかりで、これほどの大騒ぎ・・・ 芥川竜之介 「竜」
・・・三、四軒の農場の主人たちは決勝点の所に一段高く桟敷をしつらえてそこから見物した。松川場主の側には子供に付添って笠井の娘が坐っていた。その娘は二、三年前から函館に出て松川の家に奉公していたのだ。父に似て細面の彼女は函館の生活に磨きをかけられて・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・まだ、それでも、一階、二階、はッはッ肩で息ながら上るうちには、芝居の桟敷裏を折曲げて、縦に突立てたように――芸妓の温習にして見れば、――客の中なり、楽屋うちなり、裙模様を着けた草、櫛さした木の葉の二枚三枚は、廊下へちらちらとこぼれて来よう。・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・可しか、桟敷は一日貸切だぜ。」 十五「起きようと寝ようと勝手次第、お飯を食べるなら、冷飯があるから茶漬にしてやらっせえ、水を一手桶汲んであら、可いか、そしてまあ緩々と思案をするだ。 思案をするじゃが、短気な方・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ 大な蝦蟆とでもあろう事か、革鞄の吐出した第一幕が、旅行案内ばかりでは桟敷で飲むような気はしない、が蓋しそれは僭上の沙汰で。「まず、飲もう。」 その気で、席へ腰を掛直すと、口を抜こうとした酒の香より、はッと面を打った、懐しく床し・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・ ちょうど段々中継の一土間、向桟敷と云った処、さかりに緋葉した樹の根に寄った方で、うつむき態に片袖をさしむけたのは、縋れ、手を取ろう身構えで、腰を靡娜に振向いた。踏掛けて塗下駄に、模様の雪輪が冷くかかって、淡紅の長襦袢がはらりとこぼれる・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ 這入った処は薄暗い桟敷のような処で、それに一杯に人が居るようであった。桟敷の前には、明るくて広い空間が大きな口を開いていた。始めてこの桟敷から見下ろした瞬間の心持は、ちょっとした劇場の安席から下を見下ろした時のような心持であった。・・・ 寺田寅彦 「議会の印象」
・・・ しかし劇場へ行ってみると、もう満員の札が掲って、ぞろぞろ帰る人も見受けられたにかかわらず、約束しておいた桟敷のうしろの、不断は場所のうちへは入らないような少し小高いところが、二三人分あいていた。お絹にきくと、いつもはお客の入らないとこ・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫