・・・父は捨てどころに困じて口の中に啣んでいた梅干の種を勢いよくグーズベリーの繁みに放りなげた。 監督は矢部の出迎えに出かけて留守だったが、父の膝許には、もうたくさんの帳簿や書類が雑然と開きならべられてあった。 待つほどもなく矢部という人・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ごまのふってあるのや、中から梅干しの出てくるのや、海苔でそとを包んであるのや……こんなおいしい御飯を食べたことはないと思うほどだった。 火はどろぼうがつけたのらしいということがわかった。井戸のつるべなわが切ってあって水をくむことができな・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・走りもとの破れた芥箱の上下を、ちょろちょろと鼠が走って、豆洋燈が蜘蛛の巣の中に茫とある……「よう、買っとくれよ、お弁当は梅干で可いからさ。」 祖母は、顔を見て、しばらく黙って、「おお、どうにかして進ぜよう。」 と洗いさした茶・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・人間なら好い齢をした梅干婆さんが十五、六の小娘の嬌態を作って甘っ垂れるようなもんだから、小※啼きながら頻りと身体をこすりつけて変な容子をする。爰で産落されては大変と、強に行李へ入れて押え付けつつ静かに背中から腰を撫ってやると、快い気持そうに・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・それを佐伯は哀しいものに思い、そんな風に毎夜おそく帰って来る自分がまるで夜店出しの空の弁当箱に残っている梅干の食滓のように感じられて、情ないのだ。なぜもっと早く、いっそ明るいうちに帰って来ないのかと、骨がくずれるような後悔に足をさらわれてし・・・ 織田作之助 「道」
・・・かれの言いぶんに拠れば、字義どおりの一足ちがい、宿の朝ごはんの後、熱い番茶に梅干いれてふうふう吹いて呑んだのが失敗のもと、それがために五分おくれて、大事になったとのこと、二人の給仕もいれて十六人の社員、こぞって同情いたしました。私なども編あ・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・吐き出して見ると、梅干である。私はその種を噛みくだいてしまっていた。歯の悪い私が、梅干のあの固い種を噛みくだいたのである。ぞっとした。 しかし、これでもまだ、故郷までの全旅程の三分の一くらいしか来ていないのである。読者も、うんざりするだ・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・おそるおそる、「梅干があるかい?」「ございます。」 二人とも、ほっとした。「我慢するんだ。なんでもないじゃないか。米と野菜さえあれば、人間は結構生きていけるものだ。日本は、これからよくなるんだ。どんどんよくなるんだ。いま、僕・・・ 太宰治 「新郎」
・・・次男は、ものも言わず、猛烈な勢いで粥を啜り、憤然と梅干を頬張り、食慾は十分に旺盛のようである。「さとは、どう思うかねえ。」半熟卵を割りながら、ふいと言い出した。「たとえば、だね、僕がお前と結婚したら、お前は、どんな気がすると思うかね。」・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・帰ってから用心に鰹節、梅干、缶詰、片栗粉などを近所へ買いにやる。何だか悪い事をするような気がするが、二十余人の口を託されているのだからやむを得ないと思った。午後四時にはもう三代吉の父親の辰五郎が白米、薩摩芋、大根、茄子、醤油、砂糖など車に積・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
出典:青空文庫