・・・Crescendo のうまく出る――なんだか木管楽器のような気がする。 私のながらくの空想は、かくの如くにして消えてしまった。しかしこういうことにはきりがないと見える。この頃、私はまた別なことを空想しはじめている。 それは、猫の爪を・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・そして男子の太い声と婦人の清く澄んだ声と相和して、肉声の一高一低が巧妙な楽器に導かれるのです、そして「たえなるめぐみ」とか「まことのちから」とか「愛の泉」とかいう言葉をもって織り出された幾節かの歌を聞きながら立っていますと、総身に、ある戦慄・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・要するにこの四拍子の、およそ考え得らるべき最も簡単なメロディーがこの糸車という「楽器」によって奏せられるのである。そのメロディーは実に昔の日本の婦人の理想とされた限りなき忍従の徳を賛美する歌を歌っていたようなものかもしれない。 右手と左・・・ 寺田寅彦 「糸車」
・・・曲の各部をリードしている楽器を時々に抽出してその方に吾々の注意を向けてくれる。例えばファゴットの管の上端の楕円形が大きく写ると同時にこの木管楽器のメロディーが忽然として他の音の波の上に抜け出て響いて来るのである。こういうことは作曲者かあるい・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(5[#「5」はローマ数字、1-13-25])」
・・・同じジャズの楽器でもドイツ人の手にかかると、こうも美しくなるものかと感心させられる。あのサキソフォーンでさえも実に味のこまやかな音として聞かれる。アメリカのジャズはなるほどおもしろいと思う時はあっても、自分にはどうも妙な臭みが感ぜられる。た・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・それでたとえば軽い意味の助演者としてのスパークスなどという役者でも決してただのむだな点景人物ではなくて、言わば個性シンフォニーの中の重要な一楽器としての役目を充分に果たしているようである。これに反してヤニングスの場合は彼の「独唱」にただ若干・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・上野の音楽学校に開かれる演奏会の切符を売る西洋の楽器店は、二軒とも人の知っている通り銀座通りにある。新しい美術品の展覧場「吾楽」というものが建築されたのは八官町の通りである。雑誌『三田文学』を発売する書肆は築地の本願寺に近い処にある。華美な・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・しかしそれとは全然性質を異にする三味線はいわば極めて原始的な単純なもので、決して楽器の音色からのみでは純然たる音楽的幻想を起させる力を持っていない。それ故日本の音楽にはいつも周囲の情景がその音楽的効果の上に欠くべからざる必要を生ぜしめるのは・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・すべての演奏会を謝絶した先生は、ただ自分の部屋で自分の気に向いたときだけ楽器の前に坐る、そうして自分の音楽を自分だけで聞いている。そのほかにはただ書物を読んでいる。 文科大学へ行って、ここで一番人格の高い教授は誰だと聞いたら、百人の学生・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生」
・・・その岩の上に一人の女が、眩ゆしと見ゆるまでに紅なる衣を着て、知らぬ世の楽器を弾くともなしに弾いている。碧り積む水が肌に沁む寒き色の中に、この女の影を倒しまにひたす。投げ出したる足の、長き裳に隠くるる末まで明かに写る。水は元より動かぬ、女も動・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
出典:青空文庫