・・・節子は生々と頬を染めながら、「このトランクには、音楽会に要るイブニングや楽譜がはいってましたの。これから、音楽会へも出られますわ。ほんとうに、ありがとうございました。ほんとにお世話ばかし掛けて……」「いやア。お礼いわれるほどの……。・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・第一のテーマは楽譜の形からも暗示されるように、彗星のような光斑がかわるがわるコンマのような軌跡を描いては消える。トリラーの箇所は数条の波線が平行して流れる。 第二のテーマでは鉛直な直線の断片が自身に並行にS字形の軌跡を描いて動く。トリオ・・・ 寺田寅彦 「踊る線条」
・・・いろいろ考えているとき座右の楽譜の巻頭にあるサン・サーンの Rondo Capriccioso という文字が目についた。こういう題もいいかと思う。しかし、ずっと前に同じような断片群にターナーの画帖から借用した Liber Studiorum・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・ われわれ素人の楽器を弄するのは、云わば、楽譜の中から切れ切れの音を拾い出しては楽器にこすりつけ、たたきつけているようなもので、これは問題にならない。しかし相当な音楽家と云われる人の演奏でも、どうもただ楽器から美しい旋律や和絃を引出して・・・ 寺田寅彦 「断片(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・ 涼しい風が、食事をして汗ばんだ顔を撫でて行くと同時に楽譜の頁を吹き乱した。そして頭の中のあらゆる濁ったものを吹き払うような気がした。 手頃な短い曲をいくつか弾いてから、いつもよくやるペルゴレシの Quando corpus mor・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・ 適当な楽譜を得るためにはじめには銀座へんの大きな楽器店へ捜しに行ったが、そういう商店はなんとなくお役所のように気位が高いというのか横風だというのか、ともかくも自分には気が引けるようで不愉快であったから、おしまいには横浜のドーリングとか・・・ 寺田寅彦 「二十四年前」
・・・ ゴーシュも口をりんと結んで眼を皿のようにして楽譜を見つめながらもう一心に弾いています。 にわかにぱたっと楽長が両手を鳴らしました。みんなぴたりと曲をやめてしんとしました。楽長がどなりました。「セロがおくれた。トォテテ テテテイ・・・ 宮沢賢治 「セロ弾きのゴーシュ」
・・・ それは一つの厚い紙へ刷ってみんなで手に持って歌えるようにした楽譜でした。それには歌がついていました。 ポラーノの広場のうたつめくさ灯ともす 夜のひろばむかしのラルゴを うたいかわし雲をもどよもし 夜風にわすれ・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・ ひとりの少女が楽譜をもってためいきしながら藪のそばの草にすわる。 かすかなかすかな日照り雨が降って、草はきらきら光り、向うの山は暗くなる。 そのありなしの日照りの雨が霽れたので、草はあらたにきらきら光り、向うの山は明るくなって・・・ 宮沢賢治 「マリヴロンと少女」
・・・自分は、まるで素人で、楽譜に対する知識さえ持っていませんでした。けれども、音に、胸から湧く熱と、精神の支配力との調和が、驚くほど現れ、小説で、所謂技巧内容と云う考えの区別のしかたに、新しい眼を開かせられました。〔一九二二年六月〕・・・ 宮本百合子 「ジムバリストを聴いて」
出典:青空文庫