・・・彼は放埓を装って、これらの細作の眼を欺くと共に、併せてまた、その放埓に欺かれた同志の疑惑をも解かなければならなかった。山科や円山の謀議の昔を思い返せば、当時の苦衷が再び心の中によみ返って来る。――しかし、もうすべては行く処へ行きついた。・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
宇野浩二は聡明の人である。同時に又多感の人である。尤も本来の喜劇的精神は人を欺くことがあるかも知れない。が、己を欺くことは極めて稀にしかない人である。 のみならず、又宇野浩二は喜劇的精神を発揮しないにもしろ、あらゆる多・・・ 芥川竜之介 「格さんと食慾」
・・・したがって小さい時から孤独でひとりで立っていかなければならなかったのと、父その人があまり正直であるため、しばしば人の欺くところとなった苦い経験があるのとで、人に欺かれないために、人に対して寛容でない偏狭な所があった。これは境遇と性質とから来・・・ 有島武郎 「私の父と母」
・・・ 同時に真直に立った足許に、なめし皮の樺色の靴、宿を欺くため座敷を抜けて持って入ったのが、向うむきに揃っていたので、立花は頭から悚然とした。 靴が左から……ト一ツ留って、右がその後から……ト前へ越すと、左がちょい、右がちょい。 ・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 寂しく微笑むと、掻いはだけて、雪なす胸に、ほとんど玲瓏たる乳が玉を欺く。「御覧なさい――不義の子の罰で、五つになっても足腰が立ちません。」「うむ、起て。……お起ち、私が起たせる。」 と、かッきと、腕にその泣く子を取って、一・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ 雪を欺く腕を空に、甘谷の剃刀の手を支え、突いて離して、胸へ、抱くようにして熟と視た。「羨しい事、まあ、何て、いい眉毛だろう。親御はさぞ、お可愛いだろうねえ。」 乳も白々と、優しさと可懐しさが透通るように視えながら、衣の綾も衣紋・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・やや俯向けになった頸は雪を欺く。……手拭を口に銜えた時、それとはなしに、面を人に打蔽う風情が見えつつ、眉を優しく、斜だちの横顔、瞳の濡々と黒目がちなのが、ちらりと樹島に移ったようである。颯と睫毛を濃く俯目になって、頸のおくれ毛を肱白く掻上げ・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・英雄人を欺くというから、あるいはそうかも知れんが、しかし私はそんな気持はしなかった。その後は何かの用があったりして、ちょいちょい訪ねて行くこともあったが、何時でも用談だけで帰ったことがない。お忙がしいでしょうから二十分位と断って会うときでも・・・ 内田魯庵 「温情の裕かな夏目さん」
・・・ 昨夜までは、わが洋行も事業の名をかりて自ら欺く逃走なりき。かしこは墳墓なりき。今やしからず。今朝より君が来宅までわが近郊の散歩は濁水暫時地を潜りし時のごとし。こはわが荒き感情の漉されし時なり。再び噴出せし今は清き甘き泉となりぬ。われは・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・如何に正義、人道を表面に出して、自己の行為を弁護しようとも、それは、泥棒自身の利益のために、人を欺くものである。而も、現在、この縄張りの広狭争いのような喧嘩が起ろうとしているのである。これが将に起ろうとする××主義戦争である。 近代資本・・・ 黒島伝治 「反戦文学論」
出典:青空文庫