・・・もし彼等に声があったら、この白日の庚申薔薇は、梢にかけたヴィオロンが自ら風に歌うように、鳴りどよんだのに違いなかった。 しかしその円頂閣の窓の前には、影のごとく痩せた母蜘蛛が、寂しそうに独り蹲っていた。のみならずそれはいつまで経っても、・・・ 芥川竜之介 「女」
・・・どこかで今様を謡う声がする。 げに人間の心こそ、無明の闇も異らね、 ただ煩悩の火と燃えて、消ゆるばかりぞ命なる。 下 夜、袈裟が帳台の外で、燈台の光に背きながら、袖を噛んで物思いに耽っている。・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・雲雀は歌うのに人は歌わない。木は跳るのに人は跳らない。淋しい世の中だ」 また沈黙。「沈黙は貧しさほどに美しく尊い。あなたの沈黙を私は美酒のように飲んだ」 それから恐ろしいほどの長い沈黙が続いた。突然フランシスは慄える声を押鎮めな・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・私は自己の階級に対してみずから挽歌を歌うものでしかありえない。このことについては「我等」の三月号にのせた「雑信一束」にもいってあるので、ここには多言を費やすことを避けよう。 私の目前の落ち着きどころはひっきょうこれにすぎない。ここに至っ・・・ 有島武郎 「想片」
・・・仮に今夜なら今夜のおれの頭の調子を歌うにしてもだね。なるほどひと晩のことだから一つに纏めて現した方が都合は可いかも知れないが、一時間は六十分で、一分は六十秒だよ。連続はしているが初めから全体になっているのではない。きれぎれに頭に浮んで来る感・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・それは、実感を詩に歌うまでには、ずいぶん煩瑣な手続を要したということである。たとえば、ちょっとした空地に高さ一丈ぐらいの木が立っていて、それに日があたっているのを見てある感じを得たとすれば、空地を広野にし、木を大木にし、日を朝日か夕日にし、・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・故に三下りの三味線で二上りを唄うような調子はずれの文章は、既に文章たる価値の一半を失ったものと断言することを得。ただし野良調子を張上げて田園がったり、お座敷へ出て失礼な裸踊りをするようなのは調子に合っても話が違う。ですから僕は水には音あり、・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・ 留守はただ磯吹く風に藻屑の匂いの、襷かけたる腕に染むが、浜百合の薫より、空燻より、女房には一際床しく、小児を抱いたり、頬摺したり、子守唄うとうたり、つづれさしたり、はりものしたり、松葉で乾物をあぶりもして、寂しく今日を送る習い。 ・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・『平凡』の一節に「新内でも清元でも上手の歌うのを聞いてると、何だかこう国民の精粋というようなものが髣髴としてイキな声や微妙の節廻しの上に現れて、わが心の底に潜む何かに触れて何かが想い出されて何ともいえぬ懐かしい心持になる。私はこれを日本国民・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・二葉亭のお父さんも晩酌の膳に端唄の一つも唄うという嗜みがあったのだから、若い時分には相応にこの方面の苦労をしたろうと思う。この享楽気分の血は二葉亭にもまた流れていた。 その頃の書生は今の青年がオペラやキネマへ入浸ると同様に盛んに寄席へ通・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
出典:青空文庫