・・・ 涙は一度堰を切ると、とても止るものじゃない。私はみっともないほど顔中が涙で濡れてしまった。 私が仰向けになるとすぐ、四五人の看守が来た。今度の看守長は、いつも典獄代理をする男だ。 ――波田君、どうだね君、困るじゃないか。 ・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・青森まで行かなきゃ、仙台で止るんだろう」「仙台。神戸にはいつごろ着くんでしょう」「神戸に。それは、新橋の汽車でなくッちゃア。まるで方角違いだ」「そう。そうだ新橋だッたんだよ」と、吉里はうつむいて、「今晩の新橋の夜汽車だッたッけ」・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・この一段に至て、かえりみて世上の事相を観れば、政府も人事の一小区のみ、戦争も群児の戯に異ならず、中津旧藩のごとき、何ぞこれを歯牙に止るに足らん。 彼の御広間の敷居の内外を争い、御目付部屋の御記録に思を焦し、ふつぜんとして怒り莞爾として笑・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・で、面白いということは唯だ趣味の話に止まるが、その趣味が思想となって来たのが即ち社会主義である。 だから、早く云って見れば、文学と接触して摩れ摩れになって来るけれども、それが始めは文学に入らないで、先ず社会主義に入って来た。つまり文学趣・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・という肝癪の一言を以てその座を逐払うに止まるであろう。野心、気取り、虚飾、空威張、凡そこれらのものは色気と共に地を払ってしまった。昔自ら悟ったと思うて居たなどは甚だ愚の極であったということがわかった。今まで悟りと思うて居たことが、悟りでなか・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・恋愛は決して百年同一の状態に止ることをしません。必ず或る消長があります。草木が宇宙の季節を感じるように、一日に暁と白昼と優しい黄昏の愁があるように、推移しずにはいません。いつか或るところに人間をつき出します。それが破綻であるか、或いは互いに・・・ 宮本百合子 「愛は神秘な修道場」
・・・生活の需要なんぞというものも、高まろうとしている傾はいつまでも止まることはあるまい。そんなら工場の利益の幾分を職工に分けて遣れば好いか。その幾分というものも、極まった度合にはならない。 工場を立てて行くには金がいる。しかし金ばかりでは機・・・ 森鴎外 「里芋の芽と不動の目」
・・・ても耳の底に残るように懐かしい声、目の奥に止まるほどに眤しい顔をば「さようならば」の一言で聞き捨て、見捨て、さて陣鉦や太鼓に急き立てられて修羅の街へ出かければ、山奥の青苔が褥となッたり、河岸の小砂利が襖となッたり、その内に……敵が……そら、・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・ いつまでも続く女の子の笑い声を聞いていると、灸はもう止まることが出来なかった。笑い声に煽られるように廊下の端まで転がって来ると階段があった。しかし、彼にはもう油がのっていた。彼はまた逆様になってその段々を降り出した。裾がまくれて白い小・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・徳蔵おじがこんな噂をするのを聞でもしようもんなら、いつも叱り止るので、僕なんかは聞ても聞流しにしちまって人に話した事もありません。徳蔵おじは大層な主人おもいで格別奥さまを敬愛している様子でしたが、度々林の中でお目通りをしてる処を木の影から見・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
出典:青空文庫