・・・此世に時間というものはない。此の世に空間と名づけられた形あるものもない。ただ、それが観念に過ぎぬと知った時に自分等の生活は、時間と空間の中に営まれているべきものとは思われない。 たゞ、人生の生活は、感じ、考え、味うのにある。真に感じ、真・・・ 小川未明 「夕暮の窓より」
・・・だから今、かりに自分の頭には灰色な、重苦しい感情しかないからといって、この気分で見るすべてのものが、今は、眼底に灰色なものとなってうつるからといって此の世界が灰色であり、此の人生が灰色でなければならぬと思うものは少なかろうと思う。 曾て・・・ 小川未明 「忘れられたる感情」
・・・その戦死した夫の遺書には、「再婚せんと欲すれば再婚も可なり。此の世に希望なくば潔く自決すべし」と書いてあった。そして未亡人は死を選んだのであった。私は「此の世に希望なくば」云々と書き得たことが如何にこの夫婦の平常の愛の結合の・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・あなたが此の世にいなくなったら、私もすぐに死にます。生きていることが出来ません。私には、いつでも一人でこっそり考えていることが在るんです。それはあなたが、くだらない弟子たち全部から離れて、また天の父の御教えとやらを説かれることもお止しになり・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・「いまいましくて仕様が無いから、いろいろ研究しているのですが、いったい、悪魔だの、悪鬼だのというものが此の世の中に居るんでしょうか。僕には、人がみんな善い弱いものに見えるだけです。人のあやまちを非難する事が出来ないのです。無理もないというよ・・・ 太宰治 「誰」
・・・その環境から推して、さぞお苦しいだろうと同情しても、その御当人は案外あかるい気持で生きているのを見て驚く事は此の世にままある例だと思います。だいいちあのお方の御日常だって、私たちがお傍から見て決してそんな暗い、うっとうしいものではございませ・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・こんなに気高く美しい姫をいままで見た事も無し、また、これからも此の世で見る事は無いだろうと思いました。 ラプンツェルは、食事の部屋に通されました。そこには王さまと、王妃と王子の三人が、晴れやかに笑って立っていました。「おう綺麗じゃ。・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・が、壊われなかったので、此の世の中でも踏みつぶす気になって、自棄に踏みつけた。 彼が拾った小箱の中からは、ボロに包んだ紙切れが出た。それにはこう書いてあった。 ――私はNセメント会社の、セメント袋を縫う女工です。私の恋人は破砕器・・・ 葉山嘉樹 「セメント樽の中の手紙」
・・・彼にとっては、おそらく万象が、量感にみち、色彩に輝き、声と動きとに満ちていたのだろう。此の世に満々たる美しさ、愛すべきものを、彼はたっぷりした資質に生れ合わせた男らしく、どれものこさず、ぶつかり合わず、調和そのものに歓喜を覚えるような概括で・・・ 宮本百合子 「あられ笹」
・・・三斎公の言葉として、作者鴎外は、「総て功利の念を以て物を視候わば、此の世に尊き物はなくなるべし」と云っている。乃木夫妻の死という行為に対して、初めは半信半疑であった作者が、世論の様々を耳にして、一つの情熱を身内に感じるようになって彌五右衛門・・・ 宮本百合子 「鴎外・芥川・菊池の歴史小説」
出典:青空文庫