・・・いだろうから、だが、――私はその階段を昇りながら考えつづけた――起死回生の霊薬なる六神丸が、その製造の当初に於て、その存在の最大にして且つ、唯一の理由なる生命の回復、或は持続を、平然と裏切って、却って之を殺戮することによってのみ成り立ち得る・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・女子の父母、我訓なきことを謂ずして舅夫の悪きことのみ思ふは誤なり。是皆女子の親の教なきゆゑなり。 成長して他人の家へ行くものは必ずしも女子に限らず、男子も女子と同様、総領以下の次三男は養子として他家に行くの例なり。人間世界に男女・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
人物の善悪を定めんには我に極美なかるべからず。小説の是非を評せんには我に定義なかる可らず。されば今書生気質の批評をせんにも予め主人の小説本義を御風聴して置かねばならず。本義などという者は到底面白きものならねば読むお方にも・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・何も身体髪膚之を父母に受くなどと堅くるしい理窟をいうのではないが、死で後も体は完全にして置きたいような気がする。 土葬も火葬もいかぬとして、それでは水葬はどうかというと、この水というやつは余り好きなやつで無い。第一余は泳ぎを知らぬのであ・・・ 正岡子規 「死後」
・・・それより山男、酒屋半之助方へ参り、五合入程の瓢箪を差出し、この中に清酒一斗お入れなされたくと申し候。半之助方小僧、身ぶるえしつつ、酒一斗はとても入り兼ね候と返答致し候処、山男、まずは入れなさるべく候と押して申し候。半之助も顔色青ざめ委細承知・・・ 宮沢賢治 「紫紺染について」
・・・「愛と死、之は誰もが一度は通らねばならない。人間が愛するものを持つことが出来ず、又愛するものが死んでも平気でいられるように出来ていたら、人生はうるおいのないものになるだろう。純粋にそれを味わい得ることは稀だ」その純粋に経験された場合として、・・・ 宮本百合子 「「愛と死」」
・・・三男松之助は細川家に旧縁のある長岡氏に養われている。四男勝千代は家臣南条大膳の養子になっている。女子は二人ある。長女藤姫は松平周防守忠弘の奥方になっている。二女竹姫はのちに有吉頼母英長の妻になる人である。弟には忠利が三斎の三男に生まれたので・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ 一つの私事歳暮余日も無之御多忙の程察上候。貴家御一同御無事に候哉御尋申候。却説去廿七日の出来事は実に驚愕恐懼の至に不堪、就ては甚だ狂気浸みたる話に候へ共、年明候へば上京致し心許りの警衛仕度思ひ立ち候が、汝、困る様之・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
出典:青空文庫