・・・ 盾だ愈盾だとウィリアムは叫びながら室の中をあちらこちらと歩む。盾は依然として壁に懸っている。ゴーゴン・メジューサとも較ぶべき顔は例に由って天地人を合せて呪い、過去現世未来に渉って呪い、近寄るもの、触るるものは無論、目に入らぬ草も木も呪・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・星黒き夜、壁上を歩む哨兵の隙を見て、逃れ出ずる囚人の、逆しまに落す松明の影より闇に消ゆるときも塔上の鐘を鳴らす。心傲れる市民の、君の政非なりとて蟻のごとく塔下に押し寄せて犇めき騒ぐときもまた塔上の鐘を鳴らす。塔上の鐘は事あれば必ず鳴らす。あ・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・それから山の脊に添うて曲りくねった路を歩むともなく歩でいると、遥の谷底に極平たい地面があって、其処に沢山点を打ったようなものが見える。何ともわからぬので不思議に堪えなかった。だんだん歩いている内に、路が下っていたと見え、曲り角に来た時にふと・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・芭蕉の芸術のように精煉し圧縮し、感覚をつきつめた芸術の道が、そのような女性の生活ではなかなか歩むにかたいことであった。家事に疲れた僅かの時間を行燈のもとでひっそりと芸術にささげるのでは、女の才能が伸びる可能もまことにおぼつかない。 近松・・・ 宮本百合子 「女性の歴史」
・・・ 野飼いの駒 那須野が原のほおけた雑木林の中をしずしずと歩む野飼の駒を見た。 黒い毛並みをしとしと小雨がうるおして背は冷たく輝いて大きな眼には力強さと自由が満ちて居る。いかにものんきらしい若やいだ様子だ。 枯・・・ 宮本百合子 「旅へ出て」
・・・と声高らかに合唱しつつ跟いて歩む、日露戦争が終ったばかり頃のことであったから。その百銭は、そうやって持って歩いて鳴らしているうちに、いつかどうかして失くなってしまうのが常であった。暫く忘れていてふと思い出し、いくら考えてもどうなったのか・・・ 宮本百合子 「百銭」
・・・体位向上徒歩奨励、幼児保健の問題、戦没者の母子寮の設立などと全く背までくっついていて離れられない双生児の歩む姿である。 風俗の心理というものは、このどちらかの一方にだけ範囲を限ってそれぞれのものがあるのではなくて、日常生活における二つの・・・ 宮本百合子 「風俗の感受性」
市が立つ日であった。近在近郷の百姓は四方からゴーデルヴィルの町へと集まって来た。一歩ごとに体躯を前に傾けて男はのそのそと歩む、その長い脚はかねての遅鈍な、骨の折れる百姓仕事のためにねじれて形をなしていない。それは鋤に寄りかかる癖がある・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・ 役所には所々の壁に、「静かに歩むべし」と書いて貼ってある位であるから、食堂の会話も大声でするものはない。だから方々に二三人ずつの会話の群が出来て、遠い席からそれに口を出すことはめったに無い。「一体いつからそんな無法な事が始まったの・・・ 森鴎外 「食堂」
・・・この画かきさんが大なる決心と気概とをもって、霊の権威のために、人道のために、はた宇宙の美のために断々乎として歩むならば吾人は霊的本能主義の一戦士として喜んで彼を迎えたい。も少し精を出して大作を作り、も少し力を入れてウルサイ世人をばかにしたら・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫