・・・そして僕は死物の、亡者の風々主義者というわけだろう」私はすっかり絶望的な、棄鉢の気持になって言った。 私と土井とはかなり遅くなって、笹川の下宿を出た。「とにかく明日は君のところへ寄るから」と、土井は別れる時私に言った。三・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・それから生物と死物との区別だッてろくに付けることの出来るものはまず無いのサ。生物の最下等の奴になるとなんだかロクに分らないのサ、ダッテ石と人間とは一所にならないには極ッてるが、最下等生物の形状はあんまり無生活物とちがいはしないのだよ。所を僕・・・ 幸田露伴 「ねじくり博士」
・・・舌は縛られる、筆は折られる、手も足も出ぬ苦しまぎれに死物狂になって、天皇陛下と無理心中を企てたのか、否か。僕は知らぬ。冷静なる法の目から見て、死刑になった十二名ことごとく死刑の価値があったか、なかったか。僕は知らぬ。「一無辜を殺して天下を取・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・情において興味を有するからと云うて心理学者のように情だけを抽象して、これを死物として取扱えば文芸的にはなり兼ねるのであります。もっとも当体が情であるだけに、知意に比すると比較的抽象化しても物にならんとは限りませんが、これを詳しく説明する余裕・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・これとてもさきの紳士連中は無礼と知りて行うたるにあらず、その平生において、男女品行上のことをば至って手軽に心得、ただ芸妓の容姿を悦び、美なること花の如しなどとて、徳義上の死物たる醜行不倫の女子も、潔清上品なる良家の令嬢も大同小異の観をなして・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・しかれども球戯は死物にあらず防者にありてはただ敵を除外ならしむるを唯一の目的とするをもってこれがためには各人皆臨機応変の処置を取るを肝要とす。防者は皆打者の球は常に自己の前に落ち来る者と覚悟せざるべからず。基人は常に自己に向って球を投げらる・・・ 正岡子規 「ベースボール」
・・・も、つまりはそれらの女性たちが方程式の形だのでは可成りの科学知識を与えられているのに、教育のうちに肝心の科学精神を何も体得させられていないために、実験室があるわけでもない日々の暮しの中では、その知識も死物となって行くのだろうと思う。 科・・・ 宮本百合子 「科学の精神を」
・・・わきにあった棒切をひろって死物狂にふりまわす。始めこそ面白半ぶんにからかって居たからこそ、ほんとになっては面白いどころのさわぎではない。顔をまっかにしてたたかう。敵はますます勢がよくついてくる。こっちはますますおじけづいて思うように手も出な・・・ 宮本百合子 「三年前」
・・・たとい尊重して用いずにおくにしても、用いざれば死物である。わたくしは宝を掘り出して活かしてこれを用いる。わたくしは古言に新たなる性命を与える。古言の帯びている固有の色は、これがために滅びよう。しかしこれは新たなる性命に犠牲を供するのである。・・・ 森鴎外 「空車」
出典:青空文庫