・・・ さらばじゃと、大袈裟な身振りを残すと、あっという間に佐助は駈けだして、その夜のうちに、鳥居峠の四里の山道を登って、やがて除夜の鐘の音も届かぬ山奥の洞窟の中に身を隠してしまった。 こうして、下界との一切の交通を絶ってしまった佐助・・・ 織田作之助 「猿飛佐助」
・・・一生苦労しつづけて死んだ細君の代りに、せめてもに娘にこれが父親の自分が遺すことの出来る唯一の遺産だといって見せた真剣な対局であった。なににも代えがたい大事の一局であった。その対局に坂田は敗れたのだ。相手の木村八段にまるで赤子の手をねじるよう・・・ 織田作之助 「勝負師」
・・・繰り返しても繰り返しても飽くを知らぬのは、またこの懐旧談で、浮き世の波にもまれて、眉目のどこかにか苦闘のあとを残すかたがたも、「あの時分」の話になると、われ知らず、青春の血潮が今ひとたびそのほおにのぼり、目もかがやき、声までがつやをもち、や・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・だがの、別段未練を残すのなんのというではないが、茶人は茶碗を大切にする、飲酒家は猪口を秘蔵にするというのが、こりゃあ人情だろうじゃないか。」「だって、今出してまいったのも同じ永楽ですよ。それに毀れた方はざっとした菫花の模様で、焼も余りよ・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・這ッて歩いて十年たてば旅行いたし候と留守宅へ札を残すような行脚の樹もある。動物の中でもなまけた奴は樹に劣ッてる。樹男という野暮は即ちこれさ。元より羊は草にひとしく、海ほおずきは蛙と同じサ、動植物無区別論に極ッてるよ。さてそれから螺旋でこの生・・・ 幸田露伴 「ねじくり博士」
・・・ この事件は、ほとんど全く、ロマンチックではないし、また、いっこうに、ジャアナリスチックでも無いのであるが、しかし、私の胸に於いて、私の死ぬるまで消し難い痕跡を残すのではあるまいか、と思われる、そのような妙に、やりきれない事件なのである・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・のことばかりでは無く、ほかにも考えていたことがあって、それゆえ、ごはんもたべたくなくなって、ぼんやりしてしまったのであるが、けれども、それを家の者に言うのは、めんどうくさいので、もうこのまま、ごはんを残すから、いいかね、と言ったら、家の者は・・・ 太宰治 「俗天使」
・・・けれども、財産を遺すなどは私にとって奇蹟に近い。財産は無くとも、仕事が残っておれば、なんとかなるんじゃないかしら、などと甘い、あどけない空想をしているんだから之も落第。十八、苦しい時の神だのみさ。もっとも一生くるしいかも知れないのだから・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・ 鳥や鼠や猫の死骸が、道ばたや縁の下にころがっていると、またたく間に蛆が繁殖して腐肉の最後の一片まできれいにしゃぶりつくして白骨と羽毛のみを残す。このような「市井の清潔係」としての蛆の功労は古くから知られていた。 戦場で負傷したきず・・・ 寺田寅彦 「蛆の効用」
・・・ただ漠然と、上記三つの大地震の年代差から考えて、今後数十年ないし百年の間に起こりはしないかと考えられる強震が実際起こるとすれば、その前後に何事かありはしないかという暗示を次の代の人々に残すだけの事である。しかしもし現代の読者のうちでこれと類・・・ 寺田寅彦 「怪異考」
出典:青空文庫