・・・三時の茶菓子に、安藤坂の紅谷の最中を食べてから、母上を相手に、飯事の遊びをするかせぬ中、障子に映る黄い夕陽の影の見る見る消えて、西風の音、樹木に響き、座敷の床間の黒い壁が、真先に暗くなって行く。母さんお手水にと立って障子を明けると、夕闇の庭・・・ 永井荷風 「狐」
・・・「亀戸にいたんだけど、母さんが病気で、お金が入るからね。こっちへ変った。」「どの位借りてるんだ。」「千円で四年だよ。」「これから四年かい。大変だな。」「もう一人の人なんか、もっと長くいるよ。」「そうか。」 下で呼・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・「それなら君の未来の妻君の御母さんの御眼鏡で人撰に預った婆さんだからたしかなもんだろう」「人間はたしかに相違ないが迷信には驚いた。何でも引き越すと云う三日前に例の坊主の所へ行って見て貰ったんだそうだ。すると坊主が今本郷から小石川の方・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・御嬢さんが、どれほど泣かれても、読者がどれほど泣かれなくても失敗にはならん。小供が駄菓子を買いに出る。途中で犬に吠えられる。ワーと泣いて帰る。御母さんがいっしょになってワーと泣かぬ以上は、傍人が泣かんでも出来損いの御母さんとは云われぬ。御母・・・ 夏目漱石 「写生文」
・・・お国には阿母さんが唯ッた一人、兄さんを楽しみにして待ってらッしゃるでしょう。仙台は仙台で、三歳になる子まである嫂さんがあるでしょう。それだのに、兄さんが万一、』『ええ、聞く耳が無い。』と、其の兄さんはつと体を退いて、向側の窓の方に腰を卸・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・「お母さん。いま帰ったよ。工合悪くなかったの。」ジョバンニは靴をぬぎながら云いました。「ああ、ジョバンニ、お仕事がひどかったろう。今日は涼しくてね。わたしはずうっと工合がいいよ。」 ジョバンニは玄関を上って行きますとジョバンニの・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・ そのために母親は、自分の都合でばかり子供を叱らず、忙しくても辛抱して、とっくりと子供の言い分をきいてやり、親の思いちがいであったならば、さっぱりと、母さんが間違えていてわるかったね、ごめんよ、と云ってやることが大切です。こういう親・・・ 宮本百合子 「新しい躾」
・・・おっ母さんに言うて、女子たちに暇乞いをさしょうか」こう言って権兵衛が席を起った。 従四位下侍従兼肥後守光尚の家督相続が済んだ。家臣にはそれぞれ新知、加増、役替えなどがあった。中にも殉死の侍十八人の家々は、嫡子にそのまま父のあとを継が・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・「おっ母さん。あのぼろぼろになった着物を着た男がまいりましたの。厭な顔をしてわたしを見ましたから、戸を締めようと思いましたの。目が変に光っていて、その目で泣くかと思うと、口では笑っているのですもの。わたしが戸を締めようとすると、わたしの手を・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・お前のお母さんを、呼んでやろうか。」「もういい、あなたが傍にいて下されば、あたし誰にも逢いたかない。」と妻はいった。「そうか、じゃ、」と彼はいって直ぐ彼女の母に来るようにと手紙を書いた。 八 その翌日から・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫