・・・――これだけは工夫した女優の所作で、手には白金が匕首のごとく輝いて、凄艶比類なき風情であった。 さてその鸚鵡を空に翳した。 紫玉のみはった瞳には、確に天際の僻辺に、美女の掌に似た、白山は、白く清く映ったのである。 毛筋ほどの雲も・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・啻だ数量ばかりでなく優品をも収得したので、天居は追ては蒐集した椿岳の画集を出版する計画があったが、この計画が実現されない中に、惜い哉、この比類のない蒐集は大震災で烏有に帰した。天居が去年の夏、複製して暑中見舞として知人に頒った椿岳の画短冊は・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・は大阪弁の美しさを文学に再現したという点では、比類なきものであるが、しかし、この小説を読んだある全くズブの素人の読者が「あの大阪弁はあら神戸言葉や」と言った。「細雪」は大阪と神戸の中間、つまり阪神間の有閑家庭を描いたものであって、それだけに・・・ 織田作之助 「大阪の可能性」
・・・その後の、悲惨な気持は、比類が無い。 私はその日も、私の見事な一篇の醜作を、駅の前のポストに投函し、急に生きている事がいやになり、懐手して首をうなだれ、足もとの石ころを蹴ころがし蹴ころがしして歩いた。まっすぐに家へ帰る気力も無い。私の家・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・三井君の臨終の美しさは比類が無い。美しさ、などという無責任なお座なりめいた巧言は、あまり使いたくないのだが、でも、それは実際、美しいのだから仕様がない。三井君は寝ながら、枕頭のお針仕事をしていらっしゃる御母堂を相手に、しずかに世間話をしてい・・・ 太宰治 「散華」
・・・っと夕風が吹いて来て、その紙幣が庭へ飛び散りまして、一円札でも何でも、私にとっては死ぬほどの苦労をして集めて来た大金です、思わず、あっと声を挙げて庭に降りてその紙幣の後を追った時の、みじめな気持ったら比類の無いものでございました。この女は、・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・とぼとぼと、また故郷のあばら屋に帰る途中の、悲しさは比類が無い。おまけに腹がへって、どうにも足がすすまなくなって、洞庭湖畔の呉王廟の廊下に這い上って、ごろりと仰向に寝ころび、「あああ、この世とは、ただ人を無意味に苦しめるだけのところだ。乃公・・・ 太宰治 「竹青」
・・・状の者なきに非ずといえども、他の公私諸学校の生徒に比して、我が慶応義塾の生徒は徳義の薄き者に非ず、否なその品行の方正謹直にして、世事に政談にもっとも着実の名を博し、塾中、つねに静謐なるは、あるいは他に比類を見ること稀なるべし。 明治十九・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾学生諸氏に告ぐ」
・・・或るときは、大切そうに彼女の手をとって「比類なき者!」とか「素晴らしい者」とか感歎詞を連発する。インガは、もう何十度か、そういうことはやめて呉れと云わなければならなかった。 インガは自身がインテリゲンツィアであるだけ、ニェムツェウィッチ・・・ 宮本百合子 「「インガ」」
・・・アイルランド生れの物理学者であったジョン・チンダルは地質学者ではなかったが、数十年をへた今日でも、このアルプスを愛し氷河に興味をもった物理学者の観察の記述は精細さで比類すくないものとされている。面白さ、科学性と人間性の清潔な美しさにおいても・・・ 宮本百合子 「科学の常識のため」
出典:青空文庫