・・・三人きょうだいがある内でも、お律の腹を痛めないお絹が、一番叔母には気に入りらしい。それには賢造の先妻が、叔母の身内だと云う理由もある。――洋一は誰かに聞かされた、そんな話を思い出しながら、しばらくの間は不承不承に、一昨年ある呉服屋へ縁づいた・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・兄は元からおとよさんがたいへん気に入りなのです。もう私の体はたいした故障もなくおとよさんのものです。ですから私の方は、今あせって心配しなくともよいです。それに二人について今世間が少しやかましいようですから、ここしばらく落ちついて時を待ちまし・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ひょッとしたら、これがすなわち区役所の役人で、吉弥の帰京を待っている者――たびたび花を引きに来るので、おやじのお気に入りになっているのかも知れないと推察された。 一四 その跡に残ったのはお袋と吉弥と僕との三人であった・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・だから、はじめて見合いして、仲人口を借りていえば、ほんとうに何から何まで気に入りましたといわれれば、私も女だ。いくらかその人を見直す気になり、ぼそんと笑ったときのその人の、びっくりするほど白い歯を想いだし、なんと上品な笑顔だったかと無理に自・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・私にはずいぶん気に入りの子なのだが、薄命に違いないだろうという気は始終していた。私は都会の寒空に慄えながら、ずいぶん彼女たちのことを思ったのだが、いっしょに暮すことができなかったので、私は雪おんなの子を抱いてやるとその人は死ぬという郷里の伝・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・ これが昔気質の祖母の気に入りません、ややともすると母に向いまして、『お前があんまり優しくするから修蔵までが気の弱い児になってしまう。お前からしても少ししっかりして男は男らしく育てんといけませんぞ』とかく言ったものです。 けれど・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・メフィストの低音が気に入りました。道具立ての立派で真に迫ること、光線の使用の巧みなことはどこでも感心します。音楽の始まる前の合図にガタンガタンと板の間をたたくような音をさせるのはドイツのと違っていて滑稽な感じがしました。最後の前の幕にバレー・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・飾り気一点なきも樸訥のさま気に入りてさま/″\話しなどするうち京都々々と呼ぶ車掌の声にあわたゞしく下りたるが群集の中にかくれたり。京に入りて息子とかの宿に行くまでの途中いさゝか覚束なく思わるゝは他人のいらぬ心配かは知らず。やがて稲荷を過ぐ。・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・但し我気に入りたるとて用にも立ぬ者に猥に与ふべからず。 此一章は下女の取扱法を教えたるものにして、第一に彼等の言うことを軽々しく信じて姨の親しみを薄くする可らず、其極めて多言なる者は必ず家族親類風波の基なれば速に追出す可し、都て・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・十七の春、すぐ近所の小ぢんまりとした家に御気に入りの女中と地獄の絵と小説と着物と世帯道具をもって特別に作られた女はうつった。世なれた恥しげのうせた様子で銀杏返しにゆるく結って瀧縞御召に衿をかけたのを着て白博多をしめた様子は、その年に見る人は・・・ 宮本百合子 「お女郎蜘蛛」
出典:青空文庫