・・・少しでも早く海の中につかりたいので三人は気息を切って急いだのです。 紆波といいますね、その波がうっていました。ちゃぷりちゃぷりと小さな波が波打際でくだけるのではなく、少し沖の方に細長い小山のような波が出来て、それが陸の方を向いて段々押寄・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・ 父は風呂で火照った顔を双手でなで上げながら、大きく気息を吐き出した。内儀さんは座にたえないほどぎごちない思いをしているらしかった。「風呂桶をしかえたな」 父は箸を取り上げる前に、監督をまともに見てこう詰るように言った。「あ・・・ 有島武郎 「親子」
・・・産婆が雪で真白になってころげこんで来た時は、家中のものが思わずほっと気息をついて安堵したが、昼になっても昼過ぎになっても出産の模様が見えないで、産婆や看護婦の顔に、私だけに見える気遣いの色が見え出すと、私は全く慌ててしまっていた。書斎に閉じ・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・ああ明日の富籤に当りてえナ、千両取れりゃあ気息がつけらあ。エエ酒が無えか、さあ今度アこれを売って来い。構うもんかイ、構うもんかイ、当らあ当らあきっと当らあ。とヒラリと素裸になって、寝衣に着かえてしまって、 やぼならこうした う・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・窮屈さと蒸された人の気息とで苦しくなった。上野へ着くのを待ち兼ねて下りる。山内へ向かう人数につれてぶらぶら歩く。西洋人を乗せた自動車がけたたましく馳け抜ける向うから紙細工の菊を帽子に挿した手代らしい二、三人連れの自転車が来る。手に手に紅葉の・・・ 寺田寅彦 「障子の落書」
・・・それからまもなくある日縁側で倒れて気息の絶え絶えになっているのを発見して水やまたたびを飲ませたら一時は回復した。しかしそれから二三日とたたないある朝、庭の青草の上に長く冷たくなっているのを子供が見つけて来て報告した。その日自分は感冒で発熱し・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
・・・沈丁花の、お赤飯のような蕾を見ても同じ、彼女の暖み、気息を感じる。個々の存在に即し、しっかりと地に繋がり、自分も我身体の重み、熱、希望を感じて、始めて、春は私共の生活に入って来るように思う。春の麗らかな日、眼を放てば、私共は先ず、一々に異う・・・ 宮本百合子 「透き徹る秋」
出典:青空文庫