・・・産婆が雪で真白になってころげこんで来た時は、家中のものが思わずほっと気息をついて安堵したが、昼になっても昼過ぎになっても出産の模様が見えないで、産婆や看護婦の顔に、私だけに見える気遣いの色が見え出すと、私は全く慌ててしまっていた。書斎に閉じ・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・乗客は各々生命を気遣いしなり。されども渠等は未だ風も荒まず、波も暴れざる当座に慰められて、坐臥行住思い思いに、雲を観るもあり、水を眺むるもあり、遐を望むもありて、その心には各々無限の憂を懐きつつ、てきそくして面をぞ見合せたる。 まさにこ・・・ 泉鏡花 「取舵」
・・・「そんな不名誉な話は無論する気遣いはありませんが、シカシ妙だと思いましたよ、二、三日前に来た時急に国へ帰るってましたから。」「それは君、島田が帰らせるんだよ。島田には実に感服したよ。Yがオイオイ声を出して泣いて詫まった時にダネ。人間・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ネガチヴの気遣いも、骨の折れるものである。私は、その家の裏庭に面した六畳間を私の仕事部屋兼寝室として借り、それからもう一間、仏壇のある六畳間を妻子の寝室という事にしてもらって、普通の間代を定め、食費その他の事に就いても妻の里のほうで損をしな・・・ 太宰治 「薄明」
・・・ましてや論文が独創的なものであればあるほど、疵やひびが多いのは当然であるから、そういうものが大勢の合議にかかれば無事に通過する気遣いはまず無いと云ってもいい。 こんな訳からでもあろう。審査員というものには通例話の纏まりやすい二、三人とい・・・ 寺田寅彦 「学位について」
・・・の出来る気遣いはないのであろう。二枚目は草稿よりもとにかく一歩でも進まないではいられないのである。一体職工的の「仕上げ」という事が芸術品の価値にどれだけ必要なものであるか疑わしい。悪くおさまった仕上げはその作品を何らの暗示も刺戟もないものに・・・ 寺田寅彦 「津田青楓君の画と南画の芸術的価値」
・・・もしこれが何でもない事で分り切った事であったならば、世俗の人が科学を誤解し学者を唐変木視する気遣いは更にないはずである。 次にゼンマイ秤で物の目方を衡る場合を考えてみよう。不断に変化する宇宙全体が秤皿に影響してその総効果が収斂しなかった・・・ 寺田寅彦 「方則について」
・・・そうして置けば、それが他日物を書くときになって役に立たぬ気遣いは無い。それからピエエルは体を楽にして据わり直して、手紙を披いて読んだ。 ―――――――――――――――――――― イソダン。五月二十三日。 なぜ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
出典:青空文庫