・・・ 深い紺碧をたたえてとうとうとはて知らず流れ行く其の潮は、水底の数知れぬ小石の群を打ちくだき、岩を噛み、高く低く波打つ胸に、何処からともなく流れ入った水沫をただよわせて、蒼穹の彼方へと流れ去る。 此の潮流を人間は、箇人主義又は利己主・・・ 宮本百合子 「大いなるもの」
・・・ 海にある通りの珊瑚が、碧い水底に立派な宮殿を作り、その真中に、真珠のようなたくさんの泡に守られた、小さな小さな人魚が、紫色の髪をさやさやと坐っています。 なんという綺麗なのでしょう。ユーラスは、すっかりびっくりしてしまいました。今・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・ 殿は、みどりの髪をながく水底にわだかまらせて、白いかお、白い手をやわらかい娘のような藻はそっと包んでその間を赤い小老蝦はものめずらしそうに外の世界からフイに来たこの美くしい御客様のまわりをまわる。始め体の上にしんなりと被った紫の君の衣・・・ 宮本百合子 「錦木」
・・・ 深い深い水底へ沈んで行く小石のように、まっすぐにそろそろと自分の心の底へ彼の全部が澱んで行ったのである。 皆の者は、ガヤガヤ云いながらロールを動かして来た。柄を引き上げて、一列に並んだ者達は両手はブラブラさせながら、てんでんの胸で・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・ 三 遠い郊外へ出勤する重吉の外出が、段々規則的になり、来客が益々ふえ、隠されていた歴史の水底から一つの動きが、渦巻きながらその秋の日本の社会の表面に上昇しはじめて来た。十月十日に解放された徳田・志賀の名で発表・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・そのとき鷹は水底深く沈んでしまって、歯朶の茂みの中に鏡のように光っている水面は、もうもとの通りに平らになっていた。二人の男は鷹匠衆であった。井の底にくぐり入って死んだのは、忠利が愛していた有明、明石という二羽の鷹であった。そのことがわかった・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫