・・・ Nさんはバットに火をつけた後、去年水泳中に虎魚に刺された東京の株屋の話をした。その株屋は誰が何と言っても、いや、虎魚などの刺す訣はない、確かにあれは海蛇だと強情を張っていたとか言うことだった。「海蛇なんてほんとうにいるの?」 ・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・真夏の日の午すぎ、やけた砂を踏みながら、水泳を習いに行く通りすがりに、嗅ぐともなく嗅いだ河の水のにおいも、今では年とともに、親しく思い出されるような気がする。 自分はどうして、こうもあの川を愛するのか。あのどちらかと言えば、泥濁りのした・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・のみならずテニスか水泳かの選手らしい体格も具えていた。僕はこう言う彼女の姿に美醜や好悪を感ずるよりも妙に痛切な矛盾を感じた。彼女は実際この部屋の空気と、――殊に鳥籠の中の栗鼠とは吊り合わない存在に違いなかった。 彼女はちょっと目礼したぎ・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・ 且又水や寒気などにも肉体的享楽の存することは寒中水泳の示すところである。なおこの間の消息を疑うものはマソヒズムの場合を考えるが好い。あの呪うべきマソヒズムはこう云う肉体的快不快の外見上の倒錯に常習的傾向の加わったものである。わたしの信ずる・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・ 二八 水泳 僕の水泳を習ったのは日本水泳協会だった。水泳協会に通ったのは作家の中では僕ばかりではない。永井荷風氏や谷崎潤一郎氏もやはりそこへ通ったはずである。当時は水泳協会も芦の茂った中洲から安田の屋敷前へ移ってい・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・Mは毎年学校の水泳部に行っていたので、とにかくあたり前に泳ぐことを知っていましたが、私は横のし泳ぎを少しと、水の上に仰向けに浮くことを覚えたばかりですし、妹はようやく板を離れて二、三間泳ぐことが出来るだけなのです。 御覧なさい私たちは見・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・千曲川への水泳の序に、見に来る町の子供等もあった。中には塾の生徒も遊びに来ていて、先生方の方へ向って御辞儀した。生徒等が戯れに突落す石は、他の石にぶつかったり、土煙を立てたりして、ゴロゴロ崖下の方へ転がって行った。 堀起された岩の間を廻・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・そのまえには、むかし水泳の選手として有名であった或る銀行員が、その若い細君とふたりきりで住まっていた。銀行員は気の弱弱しげな男で、酒ものまず、煙草ものまず、どうやら女好きであった。それがもとで、よく夫婦喧嘩をするのである。けれども屋賃だけは・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・少年はアンダアシャツを頭からかぶって着おわり、「バイロンは、水泳している間だけは、自分の跛を意識しなくてよかったんだ。だから水の中に居ることを好んだのさ。本当に、本当に、水の中では靴も要らない。上衣も要らない。貴賤貧富の別が無いんだ。」と声・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・ ばりばりと音たててKの傘が、バスの車輪にひったくられて、つづいてKのからだが、水泳のダイヴィングのようにすらっと白く一直線に車輪の下に引きずりこまれ、くるくるっと花の車。「とまれ! とまれ!」 私は丸太棒でがんと脳天を殴られた・・・ 太宰治 「秋風記」
出典:青空文庫