・・・僕はいまだに目に見えるように、顔の赤い水屋の爺さんが水桶の水を水甕の中へぶちまける姿を覚えている。そう言えばこの「水屋さん」も夢現の境に現われてくる幽霊の中の一人だった。 一七 幼稚園 僕は幼稚園へ通いだした。幼稚園・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・「同役(といつも云う、士の果か、仲間は番でござりまして、唯今水瓶へ水を汲込んでおりまするが。」「水を汲込んで、水瓶へ……むむ、この風で。」 と云う。閉込んだ硝子窓がびりびりと鳴って、青空へ灰汁を湛えて、上から揺って沸立たせるよう・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・就中、恐ろしかったというのは、或晩多勢の人が来て、雨落ちの傍の大きな水瓶へ種々な物品を入れて、その上に多勢かかって、大石を持って来て乗せておいて、最早これなら、奴も動かせまいと云っていると、その言葉の切れぬ内に、グワラリと、非常な響をして、・・・ 泉鏡花 「一寸怪」
・・・ 今朝、松本で、顔を洗った水瓶の水とともに、胸が氷に鎖されたから、何の考えもつかなかった。ここで暖かに心が解けると、……分かった、饂飩で虐待した理由というのが――紹介状をつけた画伯は、近頃でこそ一家をなしたが、若くて放浪した時代に信州路・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・水が飲みたいんで水瓶の水を取ろうとして、出血の甚しかったんを知り、『とても生きて帰ることが出来んなら、いッそ戦線に於て死にます』云うたら、『じゃア、お前の勝手に任す』云うて、その兵はいずれかへ去った。この際、外に看護してくれるものはなかった・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・まるで希臘の水瓶である。エマニュエル・ド・ファッリャをしてシャコンヌ舞曲を作らしめよ! この家はこの娘のためになんとなく幸福そうに見える。一群の鶏も、数匹の白兎も、ダリヤの根方で舌を出している赤犬に至るまで。 しかし向かいの百姓家は・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・卓あり、粗末なる椅子二個を備え、主と客とをまてり、玻璃製の水瓶とコップとは雪白なる被布の上に置かる。二郎は手早くコップに水を注ぎて一口に飲み干し、身を椅子に投ぐるや、貞二と叫びぬ。 声高く応してここに駆け来る男は、色黒く骨たくましき若者・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・みんな食卓に着いて、いざお祭りの夕餐を始めようとしたとき、あの人は、つと立ち上り、黙って上衣を脱いだので、私たちは一体なにをお始めなさるのだろうと不審に思って見ているうちに、あの人は卓の上の水甕を手にとり、その水甕の水を、部屋の隅に在った小・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・そこで、深夜の酔歩がはじまる。水甕のお家をあこがれる。教養人は、弱くてだらしがない、と言われている。ひとから招待されても、それを断ることが、できない種属のように思われている。教養人は、スプーンで、林檎を割る。それにはなにも意味がないのだ。比・・・ 太宰治 「豊島與志雄著『高尾ざんげ』解説」
・・・ 茶の湯も何も要らぬ事にて、のどの渇き申候節は、すなわち台所に走り、水甕の水を柄杓もてごくごくと牛飲仕るが一ばんにて、これ利休の茶道の奥義と得心に及び申候。 というお手紙を、私はそれから数日後、黄村先生からいただいた。・・・ 太宰治 「不審庵」
出典:青空文庫