・・・という生れて始めてのものを飲んで新しい感覚の世界を経験したのはよかったが、井戸端の水甕に冷やしてあるラムネを取りに行って宵闇の板流しに足をすべらし泥溝に片脚を踏込んだという恥曝しの記憶がある。 その翌年は友人のKと甥のRと三人で同じ種崎・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・場合によってはうちの台所の水甕の生命よりも短いこともある。水甕の素材は二度と使えなくても、学説や理論の素材はいつでもまた使える。こういうふうに考えて来ると学問の素材の供給者が実に貴いものとして後光を背負って空中に浮かみ上がり、その素材をこね・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
・・・ 十五 中庭の土に埋め込んだ水甕に金魚を飼っている。Sがたんせいして世話したおかげで無事に三冬を越したのが三尾いた。毎朝廊下を通る人影を見ると三尾喙を並べてこっちを向いて餌をねだった。時おりのら猫がねらいに来るの・・・ 寺田寅彦 「藤棚の陰から」
・・・引掛に結んだ昼夜帯、凡て現代の道徳家をしては覚えず眉を顰めしめ、警察官をしては坐に嫌疑の眼を鋭くさせるような国貞振りの年増盛りが、まめまめしく台所に働いている姿は勝手口の破れた水障子、引窓の綱、七輪、水瓶、竈、その傍の煤けた柱に貼った荒神様・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・何でも人夫どもに水を飲ませるのが悪いというので、水瓶の処へ番兵を立てる事になった。自分は足がガクガクするように感ぜられて、室に帰って寐ると、やがて足は氷の如く冷えてしもうた。これは先刻風呂に這入った反動が来たのであるけれど、時機が時機である・・・ 正岡子規 「病」
・・・竹内の組から抜いて高見につけられた小頭千場作兵衛は重手を負って台所に出て、水瓶の水を呑んだが、そのままそこにへたばっていた。 阿部一族は最初に弥五兵衛が切腹して、市太夫、五太夫、七之丞はとうとう皆深手に息が切れた。家来も多くは討死した。・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫