・・・彼はただ、春風の底に一脈の氷冷の気を感じて、何となく不愉快になっただけである。 しかし、内蔵助の笑わなかったのは、格別二人の注意を惹かなかったらしい。いや、人の好い藤左衛門の如きは、彼自身にとってこの話が興味あるように、内蔵助にとっても・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・麻の掻巻をかけたお律は氷嚢を頭に載せたまま、あちら向きにじっと横になっていた。そのまた枕もとには看護婦が一人、膝の上にひろげた病床日誌へ近眼の顔をすりつけるように、せっせと万年筆を動かしていた。 看護婦は洋一の姿を見ると、ちょいと媚のあ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・油汗の沁み出た両手は氷のように冷えて、青年を押もどそうにも、迎え抱こうにも、力を失って垂れ下った。肉体はややともすると後ろに引き倒されそうになりながら、心は遮二無二前の方に押し進もうとした。 クララは半分気を失いながらもこの恐ろしい魔術・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・僕は急に頭の中が氷のように冷たくなるのを気味悪く思いながら、ふらふらとジムの卓の所に行って、半分夢のようにそこの蓋を揚げて見ました。そこには僕が考えていたとおり雑記帳や鉛筆箱とまじって見覚えのある絵具箱がしまってありました。なんのためだか知・・・ 有島武郎 「一房の葡萄」
・・・時は一月末、雪と氷に埋もれて、川さえおおかた姿を隠した北海道を西から東に横断して、着てみると、華氏零下二十―三十度という空気も凍たような朝が毎日続いた。氷った天、氷った土。一夜の暴風雪に家々の軒のまったく塞った様も見た。広く寒い港内にはどこ・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・…… そこに、青き苔の滑かなる、石囲の掘抜を噴出づる水は、音に聞えて、氷のごとく冷やかに潔い。人の知った名水で、並木の清水と言うのであるが、これは路傍に自から湧いて流るるのでなく、人が囲った持主があって、清水茶屋と言う茶店が一軒、田畝の・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・しかし北氷洋の氷のなかにあるこの領土の経済上ほとんど何の価値もないことは何人も知っております。彼らはまたその面積においてはデンマーク本土に二倍するアイスランドをもちます。しかしその名を聞いてその国の富饒の土地でないことはすぐにわかります。ほ・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・そして、田の面には、氷が張っていました。「地球の上は、しんとしていて、寒そうに見えるな。」と、このとき、星の一つがいいました。 平常は、大空にちらばっている星たちは、めったに話をすることはありません。なんでも、こんなような、寒い冬の・・・ 小川未明 「ある夜の星たちの話」
・・・のに世話を焼きたがるおきみ婆さんの口も怖いと、生みの母親もかなわぬ気のよさを見せるつもりも少しはあったのだろう――と、そんな事情はむろん子供の私には判らず、帰りの二つ井戸で「かにどん」の氷金時を食べさせてもらって、高津の坂を登って行く途々、・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・その時、医師の言われるには、これは心臓嚢炎といって、心臓の外部の嚢に故障が出来たのですから、一週間も氷で冷せばよくなりますとのことで、昼夜間断なく冷すことにしました。 其の頃は正午前眼を覚しました。寝かせた儘手水を使わせ、朝食をとらせま・・・ 梶井久 「臨終まで」
出典:青空文庫