・・・近所に氷がありませいでなあ、夜中の二時頃、四里ほどの道を自転車で走って、叩き起こして買うたのはまあよかったやさ。風呂敷へ包んでサドルの後ろへ結えつけて戻って来たら、擦れとりましてな、これだけほどになっとった」 兄はその手つきをして見せた・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・あらず、なお一人の乙女知れり、その美しき眼はわが鈍き眼に映るよりもさらに深く二郎が氷れる胸に刻まれおれり。刻みつけしこの痕跡は深く、凍れる心は血に染みたり。ただかの美しき乙女よくこれを知るといえども、素知らぬ顔して弁解の文を二郎が友、われに・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・胸の冷めたき事氷の如し」と書いてある。 こうした深山に日蓮は五十三歳のときから九年間行ない澄ましたのである。「かかる砌なれば、庵の内には昼はひねもす、一乗妙典のみ法を論談し、夜はよもすがら、要文誦持の声のみす。……霧立ち嵐はげしき折・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 軍刀が引きぬかれ、老人の背後に高く振りかざされた。形而上的なものを追おうとしていた眼と、強そうな両手は、注意力を老人の背後の一点に集中した。 老人はびく/\動いた。 氷のような悪寒が、電流のように速かに、兵卒達の全身を走った。・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・からフランシス・ダグラス卿、それから年を取ったところのペーテル、一番終いがウィンパー、それで段降りて来たのでありますが、それだけの前古未曾有の大成功を収め得た八人は、上りにくらべてはなお一倍おそろしい氷雪の危険の路を用心深く辿りましたのです・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・オイシャハ氷デヒヤセト云ウケレドモ、氷ガカエナイノ。オ母ッチャハワザワザ三町モアルイドニ、四ドモ五ドモ水ヲクムニユクノ。ソノイドノ水ガイチバンツメタイノ。君チャンノオ母ッチャハ、ナンデ今フユデナイカト云ッテ、泣イテバカリ居タノ。 オ父ッ・・・ 小林多喜二 「テガミ」
・・・剣のように北側の軒から垂下る長い光った氷柱を眺めて、漸の思で夫婦は復た年を越した。 更に寒い日が来た。北側の屋根や庭に降った雪は凍って、連日溶くべき気色もない。氷柱は二尺、三尺に及ぶ。お島が炉辺へ行って子供に牛乳をくれようとすると、時に・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・などと、旗取り競争第一着、駿足の少年にも似たる有頂天の姿には、いまだ愛くるしさも残りて在り、見物人も微笑、もしくは苦笑もて、ゆるしていたが、一夜、この子は、相手もあろに氷よりも冷い冷い三日月さまに惚れられて、あやしく狂い、「神も私も五十歩百・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・ 池の氷が張りつめた上に、雪が積もると、その表面におもしろい紋のような模様ができる。これはドイツで Dampflcher と称するものだそうで、この成因はあまり明らかでないらしい。田中阿歌麿氏著、「諏訪湖の研究」上編七一六ページにこれに・・・ 寺田寅彦 「池」
・・・割れたる面は再びぴちぴちと氷を砕くが如く粉微塵になって室の中に飛ぶ。七巻八巻織りかけたる布帛はふつふつと切れて風なきに鉄片と共に舞い上る。紅の糸、緑の糸、黄の糸、紫の糸はほつれ、千切れ、解け、もつれて土蜘蛛の張る網の如くにシャロットの女の顔・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫