・・・「まあ、それで爺穢いのなら、お仙なぞもなるべく爺穢くさせたいものでございますね……あの、お仙やお前さっきの小袖を一走り届けておいでな、ついでに男物の方の寸法を聞いて来るように」「は、じゃ行って来ましょう……姉さん、ゆっくり談していら・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・私は太左衛門橋の欄干に凭れて、道頓堀川の汚い水を眺めているうちに、ふと東京へ行こうと思った。 その時、私には六十三銭しか持ち合せがなかったのです。 十銭白銅六つ。一銭銅貨三つ。それだけを握って、大阪から東京まで線路伝いに歩い・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
東より順に大江橋、渡辺橋、田簑橋、そして船玉江橋まで来ると、橋の感じがにわかに見すぼらしい。橋のたもとに、ずり落ちたような感じに薄汚い大衆喫茶店兼飯屋がある。その地下室はもとどこかの事務所らしかったが、久しく人の姿を見うけ・・・ 織田作之助 「馬地獄」
・・・むしろ南京鼠の匂いでもしそうな汚いエキゾティシズムが感じられた。そしてそれはそのカフェがその近所に多く住んでいる下等な西洋人のよく出入りするという噂を、少し陰気に裏書きしていた。「おい。百合ちゃん。百合ちゃん。生をもう二つ」 話し手・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ 足も立てられないような汚い畳を二三枚歩いて、狭い急な階子段を登り、通された座敷は六畳敷、煤けた天井低く頭を圧し、畳も黒く壁も黒い。 けれども黒くないものがある。それは書籍。 桂ほど書籍を大切にするものはすくない。彼はいかなる書・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・彼等は鮮人に接近すると、汚い伝染病にでも感染するかのように、一間ばかり離れて、珍しそうに、水飴のように大地にへばりつこうとする老人を眺めた。「伍長殿。」剣鞘で老人の尻を叩いている男に、さきの一人が思い切った調子で云った。それは栗島だった・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・そうするとこれを聞いたこなたの汚い衣服の少年は、その眼鼻立の悪く無い割には無愛想で薄淋しい顔に、いささか冷笑うような笑を現わした。唱の主はこんな事を知ろうようは無いから、すぐと続いて、誰に負われて摘んで取ろ。と唄い終・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・しばらくしてお安が涙でかたのついた汚い顔をして、見知らない都会風の女の人と一緒に帰ってきた。その人は母親に、自分たちのしている仕事のことを話して、中にいる息子さんの事には少しも心配しなくてもいゝと云った。「救援会」の人だった。然し母親は、駐・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・ 漸く顕れかけた暗い土、黄ばんだ竹の林、まだ枯々とした柿、李、その他三人の眼にある木立の幹も枝も皆な雨に濡れて、黒々と穢い寝恍顔をしていない者は無かった。 大きな洋傘をさしかけて、坂の下の方から話し話しやって来たのは、子安、日下部の・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・町へ出て飲み屋へ行っても、昔の、宿場のときのままに、軒の低い、油障子を張った汚い家でお酒を頼むと、必ずそこの老主人が自らお燗をつけるのです。五十年間お客にお燗をつけてやったと自慢して居ました。酒がうまいもまずいも、すべてお燗のつけよう一つだ・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
出典:青空文庫