・・・ その夜、くろんぼを思い、少年はみずからを汚した。 翌朝、少年は登校した。教室の窓を乗り越え、背戸の小川を飛び越え、チャリネのテントめがけて走った。テントのすきまから、ほの暗い内部を覗いたのである。チャリネのひとたちは舞台にいっぱい・・・ 太宰治 「逆行」
・・・あなたを汚したくなかったのです。本当に、私は一度だって、あなたに、お金が欲しいの、有名になって下さいの、とお願いした事はございませんでした。あなたのような、口下手な、乱暴なおかたは、お金持にもならないし、有名になど決してなれるものでないと私・・・ 太宰治 「きりぎりす」
・・・必ず自身を汚してはならぬ。地上の分割に与るのは、それは学校を卒業したら、いやでも分割に与るのだ。商人にもなれます。編輯者にもなれます。役人にもなれます。けれども、神の玉座に神と並んで座ることの出来るのは、それは学生時代以後には決してあり得な・・・ 太宰治 「心の王者」
・・・その時誰かの万年筆のインキがほんの少しばかり卓布を汚したのに対して、オーバーケルナーが五マルクとかの賠償金を請求した。血気な連中のうちの一人の江戸っ子が、「それじゃインキがどれだけ多くついてもやはり同じ事か」と聞いた。そうだという返答をたし・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・ とにかく、これに関してはやはり『野鳥』の読者の中に知識を求めるのが一番の捷径であろうと思われるので厚顔しくも本誌の余白を汚した次第である。 寺田寅彦 「鴉と唱歌」
・・・ 今度のノーベル・プライズのために不意打ちをくらった世間が例のように無遠慮に無作法にあのボーアの静かな別墅を襲撃して、カメラを向けたり、書斎の敷物をマグネシウムの灰で汚したり、美しい芝生を踏み暴したりして、たとえ一時なりともこの有為な頭・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ところが、人によっては姓名の第一番の文字のところだけに真黒に指の跡を印している人があるかと思うと、また二番目の字を汚している人もある。そうかと思うとまた下の二字を一様に汚して上の二字は綺麗に保存しているのもある。一方ではまたちっともそうした・・・ 寺田寅彦 「雑記帳より(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・ 小な汚しい桶のままに海鼠腸が載っている。小皿の上に三片ばかり赤味がかった松脂見たようなもののあるのはである。千住の名産寒鮒の雀焼に川海老の串焼と今戸名物の甘い甘い柚味噌は、お茶漬の時お妾が大好物のなくてはならぬ品物である。先生は汚らし・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・然し彼等は其僅少な金銭の為に節操を穢しつつある。瞽女でも相当の年頃になれば人に誉められたいのが山々で見えぬ目に口紅もさせば白粉も塗る。お石は其時世を越えて散々な目に逢って来たのである。幾度か相逢ううちにお石も太十の情に絆された。そうでなくと・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・これは少し手数が掛るなと思っていると、それから糞をして籠を汚しますから、時々掃除をしておやりなさいとつけ加えた。三重吉は文鳥のためにはなかなか強硬である。 それをはいはい引受けると、今度は三重吉が袂から粟を一袋出した。これを毎朝食わせな・・・ 夏目漱石 「文鳥」
出典:青空文庫