・・・ ああ、己はその呪わしい約束のために、汚れた上にも汚れた心の上へ、今また人殺しの罪を加えるのだ。もし今夜に差迫って、この約束を破ったなら――これも、やはり己には堪えられない。一つには誓言の手前もある。そうしてまた一つには、――己は復讐を・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・濡れたままに積重ねておいた汚れ物をかけわたした小屋の中からは、あらん限りの農夫の家族が武具を持って畑に出た。自然に歯向う必死な争闘の幕は開かれた。 鼻歌も歌わずに、汗を肥料のように畑の土に滴らしながら、農夫は腰を二つに折って地面に噛り付・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・今までは処々に捩れて垂れて居て、泥などで汚れて居た毛が綺麗になって、玻璃のように光って来た。この頃は別荘を離れて、街道へ出て見ても、誰も冷かすものはない。ましてや石を投げつけようとするものもない。 しかし犬が気持ちよく思うのはこの時もた・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ 御柱を低く覗いて、映画か、芝居のまねきの旗の、手拭の汚れたように、渋茶と、藍と、あわれ鰒、小松魚ほどの元気もなく、棹によれよれに見えるのも、もの寂しい。 前へ立った漁夫の肩が、石段を一歩出て、後のが脚を上げ、真中の大魚の鰓が、端を・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・「ええッ、穢れる、わい!」僕はこれを押し除けて、にらみつけ、「知らないと思って、どこまで人を馬鹿にしゃアがるんだい? さッき、おれがここへ来るまでのここのざまッたら何だ?」 吉弥はちょっとぎゃふんとしたようであったが、いずまいを直し・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・月日がたつにつれて、ガラスのびんはしぜんに汚れ、また、ちりがかかったりしました。飴チョコは、憂鬱な日を送ったのであります。 やがてまた、寒さに向かいました。そして、冬になると、雪はちらちらと降ってきました。天使は田舎の生活に飽きてしまい・・・ 小川未明 「飴チョコの天使」
・・・障子の桟にはべたッと埃がへばりつき、天井には蜘蛛の巣がいくつも、押入れには汚れ物がいっぱいあった。……お君が嫁いだ後、金助は手伝い婆さんを雇って家の中を任せていたのだが、選りによって婆さんは腰が曲り、耳も遠かった。「このたびはえらい御不・・・ 織田作之助 「雨」
・・・歯のすり減った下駄のようになった日和を履いて、手の脂でべと/\に汚れた扇を持って、彼はひょろ高い屈った身体してテク/\と歩いて行った。それは細いだら/\の坂路の両側とも、石やコンクリートの塀を廻したお邸宅ばかし並んでいるような閑静な通りであ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・生活に打ち込まれた一本の楔がどんなところにまで歪を及ぼして行っているか、彼はそれに行き当るたびに、内面的に汚れている自分を識ってゆくのだった。 そしてまた一本の楔、悪い病気の疑いが彼に打ち込まれた。以前見た夢の一部が本当になったのである・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・と松木が又た口を入れたのを、上村は一寸と腮で止めて、ウイスキーを嘗めながら「断然この汚れたる内地を去って、北海道自由の天地に投じようと思いましたね」と言った時、岡本は凝然と上村の顔を見た。「そしてやたらに北海道の話を聞いて歩いたもん・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
出典:青空文庫