・・・ 汽車でアーヴルに着いてすっかり港町の気分に包まれる、あの場面のいろいろな音色をもった汽笛の音、起重機の鎖の音などの配列が実によくできていて、ほんとうに波止場に寄せる潮のにおいをかぐような気持ちを起こさせる。発声映画の精髄をつかんだもの・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・その頃の羅宇屋は今のようにピーピー汽笛を鳴らして引いて来るのではなくて、天秤棒で振り分けに商売道具をかついで来るのであったが、どんな道具があったかはっきりした記憶がない。しかしいずれも先祖代々百年も使い馴らしたようなものばかりであった。道具・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・――土堤道のつきる遠くで停車場の方から汽車の汽笛がきこえていたが、はやる心はなかった。ハンチングをかぶった学生のボルの姿は、ただひとつの道しるべだったけれど、小野たちとはべつな東京で、すぐ明日からも働き場所をめっけて、故郷に仕送りしなければ・・・ 徳永直 「白い道」
・・・Henri Bordeaux という人の或る旅行記の序文に、手荷物を停車場に預けて置いたまま、汽車の汽笛の聞える附近の宿屋に寝泊りして、毎日の食事さえも停車場内の料理屋で準え、何時にても直様出発し得られるような境遇に身を置きながら、一向に巴・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・一声の汽笛が高く長く尻を引いて動き出した上野の一番汽車は、見る見る中に岡の裾を繞ッて、根岸に入ッたかと思うと、天王寺の森にその煙も見えなくなッた。 この文を読んで、現在はセメントの新道路が松竹座の前から三ノ輪に達し、また東西には二筋・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・千住の製絨所か鐘が淵紡績会社かの汽笛がはるかに聞えて、上野の明け六時の鐘も撞ち始めた。「善さん、しッかりなさいよ、お紙入れなんかお忘れなすッて」と、お熊が笑いながら出した紙入れを、善吉は苦笑いをしながら胸もあらわな寝衣の懐裡へ押し込んだ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
汽笛一声京城を後にして五十三亭一日に見尽すとも水村山郭の絶風光は雲煙過眼よりも脆く写真屋の看板に名所古跡を見るよりもなおはかなく一瞥の後また跡かたを留めず。誰かはこれを指して旅という。かかる旅は夢と異なるなきなり。出ずるに・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・もし人間に無条件に通じ合う愛というものがあり得るなら、こうやって初冬の晴れた大空を劈いて休戦を告げる数百千の汽笛が鳴り渡るとき、どうして人々は敗けて、而も愛するものを喪った人々の思いを察しようとしないのだろう。歓呼のうちに自分の声も合せなが・・・ 宮本百合子 「時代と人々」
・・・夜になると、田端の汽車の汽笛が、つい間近にきこえて来た。「久しぶりで、たっぷり炭をおこしてあげたいけれど、あんまりのぞみがないわ」「いいさ。寒けりゃいくらでも着られるだけ結構なもんだ」 ペンをもったなり口を利いていた重吉は、又つ・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・湖を渡る蒸気船が学校のすぐ横の桟橋から朝夕出ていったり、這入って来たりするたびに、汽笛が鳴った。ここの学校に私は一ヶ月もいると、すぐ同じ街の西の端にある学校へ変った。家がまた新しく変ったからであるが、この第二の学校のすぐ横には疏水が流れてい・・・ 横光利一 「洋灯」
出典:青空文庫