・・・ いわゆる中庸という迷信に付随しているような沈滞は、このごとき人の行く手にはさらに起こらない。その人が死んで倒れるまで、その前には炎々として焔が燃えている。心の奥底には一つの声が歌となるまでに漲り流れている。すべての疲れたる者はその人を・・・ 有島武郎 「二つの道」
・・・ 椿岳の画の豪放洒脱にして伝統の画法を無視した偶像破壊は明治の初期の沈滞萎靡した画界の珍とする処だが、更にこの畸才を産んだ時代に遡って椿岳の一家及び環境を考うるのは明治の文化史上頗る興味がある。 加うるに椿岳の生涯は江戸の末李より明・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・その結果はおそらく沈滞した日本画界に画時代的の影響を及ぼすようなものになりはしないか。そうなったら自分も一つやってみようかなどとこのようなたわいもない夢のような事を思うのもやはり美術シーズンの空気に酔わされた影響かもしれない。 勝手なこ・・・ 寺田寅彦 「昭和二年の二科会と美術院」
・・・学風の新鮮を保ち沈滞を防ぐためにはやはりなるべく毛色のちがった人材を集めるほうがかえっていいかもしれないのである。同じことは他のあらゆる集団についても言われるであろう。 それはとにかく、ある時東海道の汽車に乗ったら偶然梅ヶ谷と向かい合い・・・ 寺田寅彦 「相撲」
・・・これは少し変った言い分のようであるが、しかし一般に云って、同じ団体がそう永く無事に続くということ自身が沈滞と硬化とを意味する場合が多い。これは政党でも学術団体でも、芸術団体でも同様である。どこでもやはり時々「野獣の群」が出なければ新しい生命・・・ 寺田寅彦 「二科展院展急行瞥見記」
・・・一方では季題や去り嫌いや打ち越しなどに関する連句的制約をある程度まで導入して進行の沈滞を防ぎ楽章的な形式の斉整を保つと同時に、また映画の編集法連結法に関するいろいろの効果的様式を取り入れて一編の波瀾曲折を豊富にするという案である。 なん・・・ 寺田寅彦 「俳諧瑣談」
・・・滑っこく磨き込まれている様子は、丁度多くの人手にかかって丁寧に拭き込まれた桐の手あぶりの光沢に等しく、いつも重そうな瞼の下に、夢を見ているようなその眼色には、照りもせず曇りも果てぬ晩春の空のいい知れぬ沈滞の味が宿っている――とでもいいたい位・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・時代は忽然三、四十年むかしに逆戻りしたような心持をさせたが、そういえば溝の水の流れもせず、泡立ったまま沈滞しているさまも、わたくしには鉄漿溝の埋められなかった昔の吉原を思出させる。 わたくしは我ながら意外なる追憶の情に打たれざるを得ない・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・ 自分はいつも忙しかるべきこの横町の思いもかけぬ夜のような寂寞と沈滞とに、新しい強い興味に誘われながら歩いて来た時、立続く倉の屋根に遮られて見えない奥の方から勢よく長唄の三味線の響いて来るのを聞いたのである。炎天の明い寂寞の中に二挺の三・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・しかしながら文学美術工芸よりして日常一般の風俗流行に至るまで、新しき時代が促しつくらしめる凡てのものが過去に比較して劣るとも優っておらぬかぎり、われわれは丁度かの沈滞せる英国の画界を覚醒したロセッチ一派の如く、理想の目標を遠い過去に求める必・・・ 永井荷風 「霊廟」
出典:青空文庫