・・・七日目はセルの着物に下駄ばきで来た。洋服を質入れしたのだ。 そして八日目の今日は淀の最終日であった。これだけは手離すまいと思っていた一代のかたみの着物を質に入れて来たのだ。質屋の暖簾をくぐって出た時は、もう寺田は一代の想いを殺してし・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・すると洋服を着た一人の男が人びとに頭を下げたのが見えた。石田はそこに起こったことが一人の人間の死を意味していることを直感した。彼の心は一時に鋭い衝撃をうけた。そして彼の眼が再び崖下の窓へ帰ったとき、そこにあるものはやはり元のままの姿であった・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ 汗じみて色の変わった縮布の洋服を着て脚絆の紺もあせ草鞋もぼろぼろしている。都からの落人でなければこんな風をしてはいない。すなわち上田豊吉である。 二十年ぶりの故郷の様子は随分変わっていた。日本全国、どこの城下も町は新しく変わり、士・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・ハイカラ振ったり、たまに洋服をきて街を歩いたりしているが、そんなことはどう見たって性に合わない。都会人のまねはやめろ! なんと云っても、根が無口な百姓だ。百姓のずるさも持って居る。百姓の素朴さも持って居る。百姓らしくまぬけでもある。その・・・ 黒島伝治 「自画像」
・・・浅虫にいでゆあるよしなれど、みちなかなればいらずありき、途中帽子を失いたれど購うべき余裕なければ、洋服には「うつり」あしけれど手拭にて頬冠りしけるに、犬の吠ゆること甚しければ自ら無冠の太夫と洒落ぬ。旅宿は三浦屋と云うに定めけるに、衾は堅くし・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・そろそろ女の洋服がはやって来て、女学校通いの娘たちが靴だ帽子だと新規な風俗をめずらしがるころには、末子も紺地の上着に襟のところだけ紫の刺繍のしてある質素な服をつくった。その短い上着のまま、早い桃の実の色した素足を脛のあたりまであらわしながら・・・ 島崎藤村 「嵐」
千鳥の話は馬喰の娘のお長で始まる。小春の日の夕方、蒼ざめたお長は軒下へ蓆を敷いてしょんぼりと坐っている。干し列べた平茎には、もはや糸筋ほどの日影もささぬ。洋服で丘を上ってきたのは自分である。お長は例の泣きだしそうな目もとで・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ それから、三日たって、私が仕事のことよりも、金銭のことで思い悩み、うちにじっとして居れなくて、竹のステッキ持って、海へ出ようと、玄関の戸をがらがらあけたら、外に三人、浴衣着た父と母と、赤い洋服着た女の子と、絵のように美しく並んで立って・・・ 太宰治 「黄金風景」
・・・ たいてい洋服で、それもスコッチの毛の摩れてなくなった鳶色の古背広、上にはおったインバネスも羊羹色に黄ばんで、右の手には犬の頭のすぐ取れる安ステッキをつき、柄にない海老茶色の風呂敷包みをかかえながら、左の手はポッケットに入れている。・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・童女は黒地に赤い縞の洋服を着て、右の手に花を一輪もっている。一目見ただけで妙な気がした。これはこの会場にふさわしくないほど、物静かな、しんみりとした気持のいい絵であると思った。 この絵には別にこれと云って手っ取り早く感心しなければならな・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
出典:青空文庫