・・・すると隣の金三が汗ばんだ顔を光らせながら、何か大事件でも起ったようにいきなり流し元へ飛びこんで来た。「今ね、良ちゃん。今ね、二本芽の百合を見つけて来たぜ。」 金三は二本芽を表わすために、上を向いた鼻の先へ両手の人さし指を揃えて見せた・・・ 芥川竜之介 「百合」
・・・主婦は時々鉢巻をして髪を乱して、いかにも苦しそうに洗濯などしている事がある。流し元で器皿を洗っている娘の淋しい顔はいつでも曇っているように思われた。 二、三ヶ月程たって後息子の顔が店に見えぬようになって、店の塵を払う亭主は前よりも忙がし・・・ 寺田寅彦 「やもり物語」
・・・其機会に流し元のどぶへ片足を踏ん込んだ。戸を開けたのは茶店の女房であった。太十は女房を喚び挂けて盥を借りようとした。商売柄だけに田舎者には相応に機転の利く女房は自分が水を汲んで頻りに謝罪しながら、片々の足袋を脱がして家へ連れ込んだ。太十がお・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ 白髪頭を振りたてて日かげのうす暗く水臭い流し元で食物をこね返して居る貧乏な婆の様だ。 秋の声を聞くと何よりも先に、バサリと散る思い切りの好い態度を続けて行かないのかいやになる。 ドロンとした空に恥をさらして居る気の利かない桐を・・・ 宮本百合子 「後庭」
・・・ 漸く話のわかって来た友達を失うと云う事は嬉しい事ではないので結句その方が流し元まで響き渡ってよかったのである。 ――○―― 其の日は随分暑かった。 明けられる「まど」は少し位無理をしたって開けっ放して客が・・・ 宮本百合子 「千世子(二)」
・・・ それから彼は、靴を脱いで、台所中をすかしながら這い廻った。 流し元と、女中部屋との間の板の間に、薄く泥のあとが付いて居るけれ共、それもぼんやりして何がどうだか分らないので、「此処いらを余程行ったり来たりした様ですなあ。・・・ 宮本百合子 「盗難」
・・・ 暗い、年中ジクジクしている流し元に、鍋などを洗っている姉の傍に、むずかる六をこぼれそうにおぶったまきが、途方に暮れたように立ちながら、何か小声で託っているのを見ると、禰宜様宮田はほんとに辛いような心持に打たれた。 自分がいればいる・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・ そして、今度は細君が、一つの戸棚のようなドアをあけて、流し元を見せてくれました。一つの窓もない箱の中に、昼間の電燈がキラキラして、手をのばせば、万端の用事が済むように出来ています。何と能率的でしょう。でもまた、何と薬局めいているでしょ・・・ 宮本百合子 「よろこびの挨拶」
・・・そのまま内庭へ這入って行って叺を下ろすと、流し元にいたお霜が嶮しい顔をして彼の傍へ寄って来た。「お前まアどうするつもりや、あんな者連れ込んで来てさ。」「抛っておいたらええが。」「抛っておけって、たちまちお前どこへ置くぞ。汚い! ・・・ 横光利一 「南北」
・・・が、またぶらぶら流し元まで戻って来ると俎を裏返してみたが急に彼は井戸傍の跳ね釣瓶の下へ駆け出した。「これは甘いぞ、甘いぞ。」 そういいながら吉は釣瓶の尻の重りに縛り付けられた欅の丸太を取りはずして、その代わり石を縛り付けた。 暫・・・ 横光利一 「笑われた子」
出典:青空文庫