・・・幾分か乱されはしたものの、まだ彼の胸底には、さっきの満足の情が、暖く流れていたからであろう。「いや、そう云う訳ではございませんが、何かとあちらの方々に引とめられて、ついそのまま、話しこんでしまうのでございます。」「今も承れば、大分面・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・踝くらいまでより水の来ない所に立っていても、その水が退いてゆく時にはまるで急な河の流れのようで、足の下の砂がどんどん掘れるものですから、うっかりしていると倒れそうになる位でした。その水の沖の方に動くのを見ていると眼がふらふらしました。けれど・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・桜山の背後に、薄黒い雲は流れたが、玄武寺の峰は浅葱色に晴れ渡って、石を伐り出した岩の膚が、中空に蒼白く、底に光を帯びて、月を宿していそうに見えた。 その麓まで見通しの、小橋の彼方は、一面の蘆で、出揃って早や乱れかかった穂が、霧のように群・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・鉄橋の下は意外に深く、ほとんど胸につく深さで、奔流しぶきを飛ばし、少しの間流れに遡って進めば、牛はあわて狂うて先に出ようとする。自分は胸きりの水中容易に進めないから、しぶきを全身に浴びつつ水に咽せて顔を正面に向けて進むことはできない。ようや・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・かすり傷ぐらい受けたて、その血が流れとるのを自分は知らんのやし、他人も亦それが見えんのも尤もや。強い弾丸が当って、初めて気が付くんや。それに就いて面白い話がある。僕のではない、他の中隊の一卒で、からだは、大けかったけど、智慧がまわりかねた奴・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・九 椿岳の人物――狷介不羈なる半面 椿岳の出身した川越の内田家には如何なる天才の血が流れていたかは知らぬが、長兄の伊藤八兵衛は末路は余り振わなかったが、一度は天下の伊藤八兵衛と鳴らした巨富を作ったし、弟の椿岳は天下を愚弄した・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・丁度向うで女学生の頸の創から血が流れて出るように、胸に満ちていた喜が逃げてしまうのである。「これで敵を討った」と思って、物に追われて途方に暮れた獣のように、夢中で草原を駆けた時の喜は、いつか消えてしまって、自分の上を吹いて通る、これまで覚え・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・乳色の天の川が、ほのぼのと夢のように空を流れています。星は真珠のように輝いています。その夜、町の方からは、これまでにないよい音色が聞こえてきました。その音はいつもよりにぎやかそうで、また複雑した音色のように思われました。さよ子はまたそこまで・・・ 小川未明 「青い時計台」
・・・いったいこの土地は昔からの船着場で、他国から流れ渡りの者が絶えず入りこむ。私のようなことを言って救いを乞いに廻る者も希しくないところから、また例のぐらいで土地の者は対手にしないのだ。 私は途方に晦れながら、それでもブラブラと当もなしに町・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・そしてどちらの背中にも夏簾がかかっていて、その中で扇子を使っている人々を影絵のように見せている灯は、やがて道頓堀川のゆるやかな流れにうつっているのを見ると、私の人一倍多感な胸は躍るのでしたが、しかし、そんな風景を見せてくれた玉子を、あのいつ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫